酒田に行った日


ある日、見知らぬ人からメールが入った。読んでゆくと小松澄佳作の舞妓の絵を入手したが、私のH・Pを読んでこの絵の作者の人柄や様子が判った、とあり、「無理なお願いとは思うがこの画家の資料や写真を頂けないか」と書かれてある。

 ずっと前、小松先生の名をネットに入れて見た時、過去の画家一覧表の中に名があっただけだったのに、と思いながら改めて先生の名前をグーグルに入れてみると、私のH・Pの、先生の思い出を書いた「画塾」と「キャンドル」の二つの文が先生の名と一緒に出てきたのに驚いた。

私は自分の後に残される者に関係の無い写真は不要なので殆ど捨てようと思っているが、知らない方に先生の写真が欲しいといわれて、これは欲しい方に差しあげた方がいいのではないか、と考えた。しかし先生に聞いたとしたら、なんと答えられるだろう。それに何枚かある写真は、複数の人たちと一緒なので勝手なことは出来ない。

結局十八年前の先生と私二人の写真があり、大分若いときのものだがそれに決めた。折角送るのだからと、先生から頂いた小さい舞妓の版画も一枚添えた。送り先の埼玉県の住所がはっきり書いてあるのに失礼とは思ったが、一人住まいだし、かねがね息子に注意を受けているので、こちらの住所は省略したものにした。

折り返し、丁寧なお礼のメールが届いた。自己紹介と共に、埼玉県に住んでいるが、実家が山形県の寒河江市にあるとあり、その実家の職業、屋号も書いてある。寒河江と聞いて先生の家に通っていた頃、毎年立派なさくらんぼが、食後、山盛りになって出されてきたのを思い出した。京都に住んでいた先生のお父様、孤高の画仙人と呼ばれた小松均は山形県出身である。

続いて平成八年夏、先生と一緒に山形県酒田に行った日の事が思い出された。小松均の最上川の作品展が酒田の本間美術館であり、先生はそのテープカットにご招待された。先生の誘いに乗り、私も一緒に付いて行った。

前日の午後、酒田駅に着いた。駅のそばの喫茶店に入るとそこの主人から日本海に沈む夕日をみにいったらどうですか、と勧められ、急遽そこにゆくことになった。タクシーは、最上川が日本海と出会う場所に連れて行ってくれた。川がゆうゆうと流れ、果てしなく続く海となじんでゆく。最上川に沿う道路の反対側は小高く、畑や野原で、階段のある見晴らし台のような建物がありそこで休憩した。この時、この辺りで出会ったのは老人一人きり。退職後ここに帰ってきたという。



薄ら寒くなり、だんだんと暗くなり、絶え間なく波が動いている広い海の傍に、私達二人だけでいるのが心細くなっていると、迎えを依頼していたタクシー運転手が早めに現れてくれた時は、本当に助かったと思った。やがてゆっくりと空が黄色、橙、赤と様々に変化し交じり合って広大な模様の景色を作り、太陽が日本海のかなたに沈んでいった。

 翌日は本間美術館へ。同じ日本海に面している新潟県直江津生まれの母が「本間さまにはとても、とても敵わないけれど」と言って自分の実家自慢をしていたが、その名を聞いている本間家に行くのは楽しみだった。

さすがに風格のある、お屋敷と美術館だった。先生は関係の方々と一緒にテープカットされ、ご挨拶をされた。美術館で小松均の最上川シリーズの作品をみた。これは東京の美術館でもみているが、何度見てもすばらしい力作で作者の研ぎ澄まされた精神がこちらに伝わってくる。それから美術館の応接間で館長の本間さまとに一緒に、私まで昼食を御馳走になった。この時いただいた二段になったお弁当のとても豪華で美味しかったこと。これから、このようなお弁当に私は出会えないだろうと思った。

本間さまと奥様が屋敷の中を私達二人に付き添って説明してくださり、其れが済むと、山形新聞社の若い社員の方二人に、車で酒田の名所案内をしていただいた。倉庫あと、や土門拳の美術館など。小松先生からたくさん、私の自力ではとても経験出来ないものを頂いたようだ。

その帰途、乗った汽車が十五分ほど遅れ、秋田駅で新幹線乗り継ぎのため、駅構内を、皆と一緒に走りに走り、ホームで待っていた新幹線に最後の一人になってやっと乗れた。暫く車両の入り口にへたりこんで動けなかったその辛さも忘れられない。

思いがけなく埼玉県から来たメールは、小松先生と一緒に過ごした日々を改めて思い出させてくれた。先生は私より三歳若かったので、存命だったら今もお付き合いを続けていたのにと、思いながら過去の日々を偲んでいる。

H20/04

 

画とR
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