キャンドル

新ゆりに行った目的の用事が何だったのか覚えていないが、8年前の12月の初め、当時画を習っていた小松澄佳先生と2人で新ゆりの夜の街を歩いていた。独身の先生は私と年が近く、私が一人身になってからは、家に来られたり、一緒に旅行したりしていた。

2人で歩く街はもうすっかりクリスマス気分できらきらと明るい。駅前のメイン通りを歩いていると、先生がふと思い出したように傍らにあるモリノビルにずんずん入って行かれた。このビルの中の店は若者相手の品が殆どなので、私達には関係ないのに、と思いながら其の後を付いて行った。

一階を回り二階を回って三階に来たとき「あった」と言われて指をさされた。そこはクリスマスの飾り物を売る店で、小さなツリーから豆電球、蝋燭、それにカード、と店からあふれる様に品が並んでいる。

先生は其の中に入られて品を選ばれ始めた。見るだけ、と思いながら遅れて店に入ると、先生はガラスで作られた花びらの形をしている蝋燭立ての赤白青の組になっているものを2箱手に持っておられる。

「2箱買われて如何されるのですか」と聞くと「貴女に一箱あげるのよ」と言われる。「私はいいんですよ。気を遣っていただかなくても」「私は貴女にあげたいからあげるのよ。受け取って」「どうして私に下さるのかしら」「いいのよ受けとって。私があげたいんだから」と言う会話をしながら、私は結局先生の言われる儘、3色の蝋燭と共に、蝋燭立てを頂き家に帰った。

2週間位してお稽古日に王禅寺の教室にゆくと、頂いたの同じ蝋燭立ては、切花や果物が置かれているテーブルの上に並べて置いてある。描きたい人はこれも書いてね、と言いながら先生自身、それを写生しておられる。「蝋燭立ての写生をされてクリスマスの何に使われるのですか」と聞くと「お正月の年賀状の版画にするの」との返事。

「お正月に蝋燭立て?」と声を挙げると「かまわないのよ」と早くも版木に彫刻刀で彫り始められている。夕方、私達が帰る頃には「後で少し色を入れなくてはね」と言いながら其の頃流行っていた「プリントごっこ」で試し刷りをされていた。

12月も終わり、1月になったが先生から何時も頂いている年賀状が来ない。あの蝋燭立ての年賀状が見たかったのにと残念に思っていると、1月の半ばを過ぎた頃、、先生から電話が入った。「暮れのお稽古日の頃から風邪を引いてぜんぜん抜けないの。病院にいっているのだけれど、ずっと調子が悪くて、年賀状は義理のある人に少し送っただけで、あなた達にまで送れなかったの」と言われる。「そんなに治りが遅いのなら1月30日のお稽古は休みにしたらどうですか」と言うと、「其の頃は大丈夫だと思うのでやります」と言って電話を切られた。

1月28日に先生の訃報が届いた。30日のお稽古日を予定していたので、習っている者は皆お別れの式に参列出来た。

先生のあの蝋燭立ての年賀状はどんなになったのかしら、と話題になった。年賀状を貰ったと思われる方に声を掛けて聞くと「全体がきれいなお花でしたよ。蝋燭立てではないですよ」と言われる。では改めてどんなお花を描かれたのか、どうしても見たいと言う事になり、お願いして見せて頂いた。

よく見ると、私達の見ていた彫刻の蝋燭立ての黒い輪郭はそのまま残っているが、あっさりと顔彩で加えられた筆の勢いは華やかに空間を埋めて、蝋燭立ては姿を消している。貰った方が全体綺麗な花の絵だったと言われるのも無理がない。

こんな自由気ままの先生の絵が好きだったのに、と改めて先生との早いお別れを皆で惜しんだ。

私が頂いた蝋燭立てはクリスマスの頃になると、出して飾っている。

後でどうしてあの時、蝋燭立てを私に下さりたかったのか、と考えた。前月の11月、私が京都旅行をした時、先生は一緒に行こうと気にされていたのに、忙しくどうしても行けなかった。そのとき私は京都の小松均美術館に寄って、用意されている祭壇にお線香を上げてきた。その報告をとても喜ばれていたので、其のお礼かしらと思っている。

画とR(小冊子) 画とR
H17/12掲示

 

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