日吉台地下壕
            
十二月九日、OB会の計画に参加して東横線日吉駅前の慶応大日吉キャンパスの中に在る戦時中に造られた地下壕を見に行った。一行二十二人は十時前、日吉駅に行き「日吉台地下壕保存の会」の男女二人の方に案内されてキャンパスへと向かう。

校舎へ向かう大通りはこんもりと黄色に染まった大きな銀杏並木が連なり、見事な風格を出していた。六十年前の学徒出陣に出たという慶応OBの方も一緒だったが、その頃はこの銀杏の木はとても小さかったと話される。

校内の中央の広場に着いて保存会の方々から、パンフレットに書いてある地下壕の作られた時期や経緯などの説明を聞いた。
 戦争末期の十九年九月、日本の連合艦隊司令部は、将旗を日吉に移し、陸上(慶応の寄宿舎を使う)に上がった。そしてこの日吉キャンパスは海軍の中枢基地となった。台湾沖海戦、レイテ作戦、沖縄戦、「大和」の出撃命令など、多くの作戦命令がここから出された。

 先ず連合艦隊司令部となっていた防空壕に行く。この、日吉台防空壕は延べ二千六百メートル、十九年八月ごろに工事が始まっている。キャンパスの敷地は広く、今も雑木林がたくさん残っている。 雑木林の中に作られている階段をずっと降りる。転ばぬように確かめながら歩く。今は何所にいっても手摺が在るのにと声を出したが、此処は若者が走って上り下りする所である。やっと 斜面を降りた狭い空き地に防空壕入り口があった。

 中は薄暗く電気がついているが、幾人かが懐中電気で足元を照らす。どう歩いたのか判らないが前の人の動きに従い、コンクリートに囲まれた通路を進む。片側が濡れている場所もある。大分歩いて、連合艦隊地下作戦室や司令長官室等のおかれた場所を見た。今は唯コンクリートの狭い空間に過ぎない。戦争末期になって情報部や航空本部なども次々とこの地下に入った。



 防空壕から外に出ると、斜面の下の方に作られた運動場では男女の学生、三十人位がバレーの練習をしていた。清潔そうな、真っ白に揃った運動着の動きに眼を奪われ、現代の感覚に戻る。

 先ほどの山の階段を登り、平坦地を暫く歩くと、日吉駅の線路を隔てた反対側に海軍の艦政本部の為の地下壕「二,四キロ位」を造った箕輪地区の丘がみえる。二十年一月から作り始めたがもうセメントが無く田園調布の焼け跡から大谷石を運んだが足りず、掘った部分をトーチランプで焼いて固めた。終戦の前日完成で、使う事がなかった。
既に東京や横浜が焼け野原になっている時、軍の中枢部の人達だけが生き残っても仕方が無いのにと思う。当然に日本は一億玉砕する方向へと、考えられていたのだろうか。

あの戦いで三千余名の塾生を軍隊に送り出し、二千余名の方が命を失ったと説明があった。神宮外苑に学徒出陣を見送りに行った私は、学徒出陣の回顧ニュースが流れるといつも心が痛む。

戦後、昔予科だった校舎は昭和二十四年まで連合軍に接収されていた。この校舎が造られた時期を示す西暦と皇紀の年の数字が建物の入り口の両側に分けて併記されていたのが印象に残る。

其の他、原型どおりにコンクリートで固定した弥生式堅穴住居あと、昭和十二年に造られたチャペルを見る。大学の中に在る食堂で意外と美味しい昼食をとり、休憩した。

食堂を出ると屋内に広場があり、客席が並んでいる。一隅に小さな舞台があり、十人ほどの衣装を付けた男女の学生がいる。これからシェークスピアの英語劇のリハーサルをするというので、帰りを急ぐわけでもなく、お客さま役になって七、八人が客席に座り観ることになった。

流暢な英語は全く理解出来ないまま、学生たちのやり取りの様子や振る舞いをみる。全体がふんわりと明るい。何の役だかわからないが、花のように開いた薄物のスカートをつけた女役の男がとても自然な姿で動いている。男女がすっかりなじんだこんな時代なのだと、平和な気持に浸りながら眺めていたが、私の年代が知っている黒の学生服にゲートル姿の大学生もチラリと頭をよぎっていった。

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