横浜の家

昭和31年、葉山の家を出て、横浜の東横線の妙蓮寺駅に出来た高台の社宅に移った。3階建てで12世帯が2棟である。6畳4,5畳と台所兼食堂で 12坪だが、大学生が2人いる方や、お姑さんと一緒の家も何軒かあった。荷物が少ないので、4,5畳の一間の押入れは上下小学生、幼稚園の息子達のベット になった。

世間標準より給料が安いらしい、ということで、生活の苦しさはこの社宅の共通の話題だった。

誰かがスカーフの縁かがりの仕事を引き受けて来た。一つの部屋に5、6人集って、切りっぱなしの絹のスカーフの縁を細く丸めてかがる。地方出身の和裁を仕込まれた方は、仕事が綺麗で速くてとても敵わない。手間賃はあきれるほど安かった。

ある日新聞に市場調査員の募集が載ったので渋谷のその事務所を訪ねた。仕事は開業医にすで郵送されている薬に関するアンケートの用紙に、書き込んで貰って、その紙を受け取って、お礼にタオルを置いてくる。

その日すぐ、品川区の医院十数軒の住所を渡された。品川区は全然縁の無い所なので途方にくれたが、ともかく品川に行き、駅前の交番に入った。 住所を書いた医院一覧表をみせると、お巡りさんは、地図を見ながら、全医院の方向と乗り物、目印を教えてくれたので本当に助かった。その頃は乗り物も不便 で、30分歩いてやっと医院に着く時もある。親切なお巡りさんの助けが無ければ、私には無理な仕事なので一回で辞めた。


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こんな事をしている私に、息子の小学校の友達のお母さんが、私にお金を借りにきた。近くの人なので、1000円を貸したが、半年間催促してやっと返って来た。こんな時代だったのかもしれない。

いよいよお金の無くなったある日、私の実家に(その頃三鷹市)お金を借りに行った。其の頃は電話が無いので昼頃、不意に訪ねた。

すると、父と母は二人でお赤飯の昼食をしている最中である。不思議に思い「今日は何か良い事がある日なの」と尋ねると「今日はお前の誕生日じゃないか」と父が言う。私はすっかり忘れていた。お赤飯をはじめ、なにかを沢山貰って帰った。

長男が小学3年生の時、夫が子供の頃かかった結核が再発し、久里浜の病院に入院した。結局、夫は1年半、会社を休職している。やっと暮らしているのにボーナスが無くては生活してゆかれない。

葉山の頃作っていた着せ替え人形の材料の余りあったので、自分で考えて6、7センチの小さい人形を沢山作った。葉山の時のように又、売ってみようと思う。

横浜駅の高島屋の横の通りに「マドモ」というハンドバッグや小物を売っている店があり、そこに勇気を出して6、70個持って飛び込んでみた。委託で置いて頂けないか、と言っているのに、40歳くらいのマスターはすぐ全部買い取ってくれた。踊るような気持で店を出た帰り道のことはずっと忘れられない。

次にこの店に行ってみると、道路側のショウウインドウにずらりと私の人形が並び、私は有名人では無いのに、私の名が作者として書いてあるのに驚いた。

それから次々注文が来た。沢山の材料を買うため、まるで縁の無かった浅草橋の問屋街にも足をのばした。紹介する人があって、銀座と渋谷の店にも納 めた。しかし、社宅の友人二人に手伝って貰っても、手仕事の品は、クリスマスの頃は数が間に合わず、2年くらいで、また責任の持てる横浜1軒に絞った。

初めの売値を見て「こんな人形1個より今川焼き10個の方がずっといいよ」と言った小学生の息子の言葉を売値の目安として、卸値をだんだん上げて いった。電話で注文を受け、夕方、店に品を持って行くと、女の子が新しい人形の到着を待っていたり、作り方を教わりたいと家まで来た子もあった。その時代 の流行も取り入れ、素人らしいのがよかったのかもしれない。

(この頃作った人形を一部残してあったので、四十年経ったものですが、写真に撮りました。)

この人形作りは、川崎に引っ越した後も、社宅の友人1人の助けを借りて、延べ10年間続けた。暇を見ての仕事は、夫の給料の三分の一程度になった。時代と共に生活はだんだん楽になっていった。

H18/01

 

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