鶴見の家「終戦後」

昭和二十年八月、終戦となった。そのころ父が借りていた鶴見の家を持っている勤務医の妻子が疎開先から戻るので、私達はすぐ近くにある勤務医の親のKさん「転勤中」の大きい家の二間を借りた。ここではKさんの知人同志の三所帯が、同じ台所で一緒に暮らした。この家から私は嫁に出る。  

 進駐軍が東京にやって来たらどんな世の中になるのか、想像がつかず、田舎に行って暫く東京の様子を見ることになった。二十年八月の末、大学の寮から戻ってきた妹と二人で、新潟県の高田駅にゆく。

すぐ駅前で商売をしている伯母の家を訪ねると、先ず昔のままのまっ白いご飯をだしてくれた。 副食が何だったか覚えていないが、ともかく、珍しく、美味しく、恥ずかしいくらいお替りした。こんな白いご飯を毎日食べていたの、と、驚くと、戦時中でも以前とそんなに変わらない食事をしていたという。日本海が近く、米処の新潟県で、しかも地主なのだから当たり前だったのかもしれない。
「暫くして農地解放で、この伯母の生活が、がらりと変わった。先祖が努力して営々と築き上げたものをこの代になって、あっさり失うのはおかしい気がした」

つぎに三十分歩いて、義祖母「おばさん」のいる北城町の父の実家にいった。食事どきには、同じく真っ白なご飯が出た。聞くと、伯母と同じように何も混じらない白いご飯しか知らないという。久々におばさんの作った漬物や、畠で作る丸茄子などの野菜が美味しい。新鮮な赤い甘海老が大皿で出てきたときは驚いた。戦争中、都会とは大分食料の様子が違がっていたのを知った。そのころは冷蔵や輸送の能力がない。



戦時中のある年、暮れにお餅を送ったと田舎から連絡があったが、なかなか家に着かない。母と私が池袋の駅に行き事情を話して、この駅に着いている荷物の置き場を見せてもらった。母は包んである布の柄から絶対にこれだと言い、中身は伸し餅でなく、切り餅だと証拠を言って開き、引き取ってきた。駅には着いているのに、包みがぐさぐさとなり荷札が無く、受取人不明となっていた。食料不足の世の中で、いろいろとあったのだろう。

義祖母のいる高田の父の実家では子供の時のように、元気だった従兄弟たちは復員して顔をみせた。昔お祖父さんのいた子供のころ、皆で遊んだ近所のお神明さんの森や、石投げをした川原に行った。暫くして東京で平穏に進駐が行われているのをみて鶴見の家に帰った。

 鶴見の家に、ある日、池袋で隣だった家のおばさんが訪ねて来た。運悪く母が外出していてがっかりしていた。そのころは、どの家も電話が無い。おばさんは池袋の空襲の時、病気で動けず火が迫っているのでこのまま放って逃げてくれ、と言っているおじいさんを雨戸の戸板にのせて、根津山の避難場所に運んでいる。私がおばさんの相手をしたが、「毎日南瓜ばかり食べているので、顔がこんな黄色くなった」と言う。池袋の焼け跡の敷地を耕して畠を作り、小屋を建てて住んでいた。確かに顔が黄色かった。相変わらず元気のいい話し振りだったが、暫くして訃報を聞いた。

終戦まで、一緒に食事を共にしていた勤務医は、よく私達のいる家にきて、話し込んでいた。 「良家のお嬢さんの具合が悪いというので診察したがどうしても原因が解からない。首をひねっていると赤ちゃんの心音が聞えたので驚いた。これを聞いて母娘共に泣き崩れていた」。なんでもありの、今の時代にいて、時々この頃の人達の真面目さを思い出す。

 池袋の家が焼ける直前に見合いをしたものの、戦況厳しく、不確かに婚約していた夫が復員、就職したので翌年三月結婚した。大神宮で私は姉のお古の着物、夫は国民服で式を挙げた。粗末な食事をしただけなので田舎の客は飲めや歌えがなく不満そうだった。

 父の知り合いの数人が何とか材料を調達し、徹夜して直径十二、三センチのケーキを作ってくれた。バタークリームでバラの花を飾り、手製の箱の中にいれて二十四人の出席者に配られた。今の物に比べればとても簡素なものだが、世の中には未だこんなものは全く出ていない。当時七歳だった夫側の姪は「叔母様の結婚式のとき、ケーキを一箱づつ貰ったあの驚きと感激は絶対忘れられない」と大人になっても言っていた。


H22/10

 


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