鶴見の家 「終戦前」



昭和二十年の四月十三日、池袋の家を空襲で焼け出され、父母と私は、庭の防空壕の中で暫く住んだ。防空壕には幾日分かの食料が用意され、水が火鉢に入り、蓋をして腰掛となっていた。他の家の焼け跡に、水の出っぱなしの水道口が一つあったのでとても助かる。そのうち焼けなかった近くの区域の知人が、食べ物を持ってきてくれたり、お風呂を沸かして呼んでくれたりした。焼け野原にいると、もう爆撃される心配がなかった。

被災した者は、会社に行けば何がしかの援助品がもらえるという事を聞いて、私がリュック姿で父の会社に初めてに行った。鶴見臨港線の奥までの父の通う会社が遠くて驚く。この頃の電車の窓ガラスは割れても補充されず、風の入りっぱなしの窓がたくさんあり、不定期に動いていた。



暫くして、父母と新潟県高田の同郷で、親しくしているKさん夫婦「関西に転勤中」が、鶴見の東寺尾にある、次男の勤務医の小さい家を空けてくれた。その家に父母、私、それに母方の従兄弟の大学生四人が住んだ。

夕方になると、家族を疎開させているKさんの長男、次男と娘婿、の三十代の義兄弟たちが勤務を終えてこの家に食事にやってくる。三人とも父母が仲人をしているので気楽そうだった。

夜の食卓は、五人の男達と明るい母と私がいて、随分賑やかな笑いの多い時間となっていた。今とは比べ物にならないほど鮮度の悪い配給の秋刀魚で作った秋刀魚の雑穀ご飯や、おから炒りがよく作られた。私は、家が焼けた後、仙川の技研の寮に住所をおいていたが、京浜地区の会社に公用使「書類を届けたり貰ったりする」の用事のある時には大抵私が指名され、用事の終わったら、その日は仙川にもどらず、鶴見の家に泊まるよういわれた。

昭和二十年五月二十九日、昼間の横浜大空襲の日はたまたま鶴見にいた。空襲になり、鶴見の山の方からみていると、黒い煙が異常に横浜市内の上空を覆っていて、大被害らしいのが分った。しかし、その状況がよくわからず、二日ほど経って母が近所の人数人と連れ立ち、歩いて横浜市内の様子をみに行った。夜遅く帰ってきた母は、とてもひどい状態で死臭がはげしく、若い娘が見るものではないと話をしていた。



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