年をとる

           
六十台半ばだった頃の夫からこんな話を聞いた。ある時、会社の大きな集まりがあり会場にゆくと、若いころの夫の上司、Aさんに会った。Aさんは八十半ばになっておられた。たまたま同じ方向なので一緒の車で帰ってくると、車中でこんな話をされていたそうだ。

 「年をとって何かしょうと思ったら、ある程度、自分が恥をかいて、他人に少しの迷惑をかけなくては何も出来ないんだよ」と。それを聴いた私には、どうしてだかその言葉がずっと住みついてしまっていた。そして今、まさにその言葉の時代を過ごしているようなのだ。

数年前まで習っていた大正琴は、発表会の時の、自分の遅れ勝ちな行動が全体の迷惑になりそうなのでこれは辞めた。

 それに代わって、一人でできる事と考え、新百合の水彩教室に行ってみた。水彩教室では最高年齢になるが、前からやっているエッセイ教室の仲間の中には私より三才上の方が、他の水彩教室に通っておられるのを知っているので、勇気を出した。荷物が多く、いつも車での往復だが、歩けなくなって老人ホームに入っている姉を思い出せば、あとどのくらい往復出来るのか、と考え、車代には目をつぶる。



まず歳を感じたのは、持っていったショルダー、用具、画用紙、上着などの四つの荷物のうち何か一つを帰りがけ教室に忘れそうになり、後ろから何回も声をかけられたことだ。ここの透明水彩の画法は初めてなのでその濡れ具合に色をさすタイミングが難しく、もう三年くらいになるが自分であきれるほど上達しない。殆ど始めの頃のままだ。しかし教室の雰囲気がいいのでその教室の中でひとときの時間を持つだけで満足した気分になっている。

絵のある日は教室に早く着いた人がイーゼルや椅子などを円形に並べ準備をする。無理しなくて良いと言われ、他の人に任せて既に整えられた場所に座る。時間の終わりの片付けも同じだ。まさに、今は他人に迷惑をかけ、甘えて過ごしている状態である。

先日、銀座で先生の個展があった。一緒に行きましょうと誘われて、皆に連れて行って貰えるなら、と行く気になった。十一時、登戸駅に六人集合、この日夕方雨が降るかもしれないという天気予報に、一緒に行く予定だった四才年下のBさんは不参加。偶然にも私以外五人とも昭和十六年生まれという元気一杯の仲間の中に私一人が加わった。

電車に乗ると、乗り換え駅も、銀座駅を降りて画廊を探すのも、一切お任せで皆のあとをついてゆく。足元の危なそうな所は一緒の人たちがこまめに気を使ってくれる。初めて行った先生の個展だが、教室とは又違う素敵な絵がたくさんあって、教えられるものがあり、出かけてきて本当に良かったと思った。久しぶりの銀座で、初めての店でゆっくりとした食事をしてから、今まで銀座にあると知らなかった人形館にも寄り、それぞれのお国の服をきている特徴のあるお人形の数々を眺めた。

帰るために銀座の地下鉄駅のある三越に戻ると、地下売り場では明後日に迫っているバレンタインデー用の有名メーカーのチョコレート売り場が行列をしていた。友人が並ぶのをみて、贈る人もいないのに、自分用にと並んだ。買った後、混雑の中で仲間とはぐれてしまい、私の判断ミスがあったのか、暫く探したが会えず、仕方なくそこから一人で家に帰った。東京生まれなので帰り方は分る。家に着いて暫くして仲間の一人から無事に帰ったかと、確認の電話が懸かってきた。

私自身には有意義な一日だったが、元気な人達のなかで迷惑をかけながら暮している自分がいるのを、改めて感じた日でもあった。

 H22/03

 

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