とむらう


大震災で世のなかが落ち着かない中で、姉「九十一歳」が亡くなった。私たち三人姉妹の長女で、とても確り者である。嫁してからも実家の父母に、長女としての気配りを怠らず、私たち妹二人は何か困り事があるといつも姉に相談していた。

二年ほど前から、転ばないのに骨折が原因で歩けなくなり、車椅子の生活になって、多摩川べりにある老人ホームに入っていた。少し認知があるが、昔の話しは殆んど覚えていた。

三月二十三日の水曜日、姉の娘M子から電話がかかる。姉はかねて体調をくずしていたが、急に様子がおかしくなり、救急車で都立病院に入院した。すぐに、検査をしたが、腎臓病、老衰その他で、長くてあと一週間といわれたそうだ。

知らせを受けた翌日、M子、私、従姉妹のE子と三人で病院にゆく。体はむくみ、呼吸するのがやっとで、呼びかけると何とか声を出していた。土曜日、訃報が届く。平均寿命から見て、九十一歳というのは、仕方の無い年かもしれない。翌、日曜日の通夜、月曜日の葬式は、田園調布にある、この三月に開館したばかりという葬祭会館で行った。家族葬といっていたが孫やひ孫で二十数名となっていた。



姪のM子は今六十歳後半だが、四十代の初めのドイツ転勤中、急に夫を失った。姉達夫婦はそれこそ献身的に、M子と孫息子二人の一家を援護していた。孫が独立し、姉が一人になってから、敷地に二軒、家を建てM子は姉の隣に住んだ。弟のF雄は、横須賀で医者をしているので、この葬儀は急遽M子が場所選び、雑事を手配し、殆んど一人で取り仕切っていたようだ。

葬儀所は三階になっていて、一日一組だけなので落ち着いた雰囲気だった。祭壇には今風に白、ピンク、薄紫などの洋花がたっぷりと飾られて、上品な雰囲気をかもし出している。花の中心に飾られた姉の写真は、数年前写した孫の結婚式の時のものだそうだが、晴れ晴れと微笑した写真は何ともいえず、良い顔をしている。私にはこんな百点ような写真はないとM子に僻んでみせた。

姉の家は日蓮宗の池上本門寺の檀家である。本門寺から三人の僧侶が来られた。年配の僧侶を中心にして、若い僧侶が二人続く。長年、お盆のころは必ず姉の家に来られ、姉がご接待をしていた。年配の僧侶は、お経の合間合間に姉たち夫婦の思い出話をさりげなくなさる。通り一遍ではない気持ちのこもった雰囲気がずっと流れていた。

二日目、葬儀を終え、焼き場に行く途中のバスの中でM子と隣席になったのでM子と話をする。「二日ともお天気がよく晴れて、場所も良く、お花も綺麗で、花まるのような葬儀が出来てよかったね」とM子をねぎらった。「一番お金のかかる時代に、姉に不満を言われながらも、お姑さんがお寺の何かの役を勤めていたけど、その結果が今日の葬儀にも繋がっているのよ」というと、そんな考えもあるのね、と答えていた。

初七日のお経もすみ、最後の僧侶も一緒の食事となる。長野の妹は都合で来られなかったが、甥たちとは何年ぶりかで会った。寛ぎなから食事をしていると、突然喪主の甥が私の傍にやってきた。「どうみても、叔母様が一番年上ですから、最後の献杯の音頭をとってください」という。

「そんなことは、出来ない」と必死に断ったが、押し切られてしまった。献杯の前には何か一言挨拶しなくてはならないと焦った。さて、どうしょう。バスの中の会話しか浮かばない。姉はこんな時の挨拶は気が利いていてとても上手だったので、いつも安心して姉に任せていた。

「叔母様、献杯をお願いします」の声に立ち上がった。「さっきM子ちゃんに言っていたのですが、花まるのようないい葬儀が出来て、姉もさぞ喜んでいることと思います」と言って献杯した。

すぐ、花まる、とお祝いのような、この場にはそぐわない言葉を使ってしまったと後悔した。夜になってM子に謝りの電話をかける。「話が短くてよかった。そんなの全く気にしないで」とのM子の言葉が返ってきた。


H23/05

 

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