地震の日



地震のあった三月十一日(金)の午後、私は歩いて三十分位の行きつけの美容院にいた。翌日十二日(土)の午後から、小学校のクラス会があるからだ。場所は銀座三越の十一階にある日本料理店である。乗り換えが二回あるが、その位はまだ一人で行ける。改装され、大きくなったと聞く三越も見たくて、出席の返事をした。五十人のクラスの同級生は、年々減ってゆくが、出席と返事をしたのは八人。気の遣う会ではないけれど、普段、だらしなくしているので、美容院は良い機会だった。



午後二時の予約どおり美容院にゆき、カットをして貰っていると 突然、がたがたと地震の揺れが始まる。この日は客が少なく、部屋にいたのは夫婦の美容師二人に、私と、後一人の客だった。大分ゆれが激しくなり店内に小さく流されていた音楽が、ラジオ放送に変わり、地震情報となる。東北地方の大きい震度が表示される。どうなるかと暫く身構えていたが、そのうちに揺れが収まった。美容院の小学生と中学生の女の子たちが続いて学校から帰ってくる。

髪のセットを終え、いつものように、タクシー会社に電話をして貰うが、小田急線が止まり、駅前のタクシー待合所が大混雑だからと断られた。早速、美容師さんが自分の車で私の家まで送って下さり、有り難かった。暫くして息子から安否の問い合わせの電話がかかる。テレビをつけっぱなしにして無残な現地の様子を知る。

東京の交通網はみだれ、足を奪われ、帰宅できない人たちの様子がテレビに映る。クラス会がこの日だったら、巻き込まれて、帰宅にどんなに苦労をしていただろう。夜九時頃になって、孫娘が会社の帰りだといって、突然現れた。渋滞の中を抜け出して私の家に寄ったそうで、勤務先会社の、宣伝模様の大きく描かれた車に乗って来た。

孫の小さい頃から、開き戸の食器棚の取っ手を、地震の時、中みが飛び出さないよう、いつも紐で結んでいて、「これなに」と聞かれていたが、今日は、この紐が初めて役に立った。買い置きの水も何本か用意してあるが、寝る前に、二つのやかんに水を張ってから寝るのは、私の戦時中からの習慣である。後で友人に電話すると、同じことをしていた。

明日十二日のクラス会は余震があるかも知れず、中止になったとは思うが、念のため東京の幹事に電話をしたが通じない。私の家の付近全体が不通なのかと、お隣にゆき、私の家に電話をすると懸かるが、逆に私の家からお隣には通じない。NTT故障係の指示で、電話機のメーカーに電話をするが、大混雑であきらめた。翌十二日夕方、メーカーの指示で、電話機のボタンをあちらこちら押すと、回復した。

夜になって、この日、十二日に予定されていたクラス会はどうなったのか、と幹事に電話をする。出席予定者八人中、四人が銀座三越に行っていた。五千円の会費とは思えないご馳走だったという。いつものクラス会と違って人数が少ないだけ、小さい席を囲み、しみじみとした話が出来たそうだ。

私は地震の翌日なので、大きな余震があるかもしれないと心配し、又報道されているあの津波の災害の大きさに驚いて気が乗らない上、電話が繋がらず無断欠席した。当然のように出席した同じ八十七歳になる友人たちは、肝がすわっているのか、この日のクラス会を、よほど楽しみにしていたのか。


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