土地探し

六年間、横浜妙蓮寺の二DKの社宅で過ごしていたが、会社の都合で全員社宅を出るように言われ、今度こそ家を建てようと真剣に考えた。昭和三十五年、上の息子はもう東京の中学に通っていた。
姉の結婚の時と違い、空襲で家を焼かれ、終戦直後で、嫁入り支度の全く無いまま、私を嫁に出したのを父は気にしていた。その代わり家を建てる時には少し助けるから、という言葉を貰っていたので、それを頼りに、貯金は全く無かったが、私は土地を探し始めた。

 便利な所が欲しいと思ったが、父に郊外の安い土地を、広く買った方が良いと言われそれを頭に置いて探した。そのころ郊外の地価は日に日に上昇していた。
 母は病気だったので、父や姉と一緒に住みなれた横浜市を中心に東横線、横浜線、相模線等の沿線をみて歩いた。しかし駅から近く、条件が良いと思うと土地が狭く、広ければバスで何分となり、これと候補にする所は無かった。

 小田急線沿線が良いではないか、新聞に大きく新宿は副都心になる、とあったから十年もしたら見違えるように発展するよ、と父に言われ、小田急線も探す気になった。

 父と二人、小田急線の生田駅で降り、駅前の不動産屋の案内で、坂を歩いて十五、六分の売り地を見に行った。その土地は周りに家が数軒あるが、木や雑草が生えていて薄暗い。しかも古井戸があり不気味な雰囲気がある。駅からの距離や坪数に不満はないが、どうしても気が進まなかった。



 この辺りの景色を見ながら帰りますから、と伝えて不動産屋と別れ、坂を下りると、商店が点々とある世田谷通りに出た。駅の方に歩いていると、竹屋があり、六十を過ぎたおじさんが店の前で竹篭を編んでいた。足を止めて飾ってある籠の数々を眺め、雑談がてら地所を探している話をすると「地所なら生田駅前の米屋が持っているよ」と、おじさんはすぐ立ち上がってその店に連れて行ってくれた。土地を案内する米屋の息子と一緒に竹屋のおじさんも付いてきた。

その土地はあたり一面麦畑の中にあった。 二区画のうち前はもう売れている。駅からの距離も値段も前の土地と同じようだが、周りが広々として明るく気分がいい。見渡すと家も数軒みえる。父の言う広さに近く、良いのにしょうか、と思う。

竹屋のおじさんは、更に、「此処の場所からだと生田駅より隣の駅の方が近いから、案内するよ」といって前の道と違う方向にゆき出した。途中線路が右に見えてくると、「この線路に沿った脇道は遠回りだから、この辺りの人は線路の上を歩いているんだ」と言って線路の上を歩きだした。途中にある小さな川にかかる橋の枕木の上をひょいひょいと渡ると、目の前の駅にすぐ着いた。このころの小田急線は一時間に三、四本しか通らなかった。

昭和三十五年にこの土地を買い、三十七年の三月小さな家を建てた。この家でささやかな新築祝いして親姉妹を呼んだ。パーキンソン氏病だった母も車椅子で現れた。一番喜んでいたのは父で、私の夫が末の子で親もすでになく、セカンドハウスのような気分で度々来るのを楽しみにしていたらしい。しかし、その年の八月、父はがんで亡くなった。

私の家は大人の足で駅への往きは十二分、帰りは階段を登って十三、四分の場所にある。そのころ階段を登り切って家の在る台地に着くと、駅付近とは全く違がった澄んだ空気が辺りに漂っていた。

学校に仕事にと家族はそれぞれ自分の生活をして過ごした。実家の妹の医院を六年間手伝っていた女の子を、商売で家に出入りしていた近くの農家の次男に紹介すると、すぐ話がまとまり、仲人をした。少しこの土地の人たちと繋がりができ、何かの時は気安く頼める夫婦が近所に出来て心強くなった。

ここに住んで二十八年経ち、私が六十六歳の時夫がなくなる。
一人になると、近所の人が声をかけて来るようになった。しかも夫や息子たちの様子をよく知っていた。まだ田舎の気分や風習の残る土地の中に来たよそ者はそれなりに目立っていたらしい。老人会から、未だ若いのだから役員をするよう声がかかり、其れと一緒に近所の「老人憩いの家」に習字や俳句を習いに行ったので近所の顔見知りがだんだんとふえていった。

先日、近所の測量士が隣家との境界線の事で、私の家に印を貰いにきた。測量士の家はこのあたりの昔からの大地主だが、私の家のそばで生産農家としてまだ千坪以上の畑をやっている。よく知っている顔なので家に上がるよう勧める。私の越したころは若々しい新婚夫婦だったのに、もう七十歳だそうだ。

「このごろ野菜作りが流行っているけれど、私も剥げてきた芝生を掘り起こして一坪ばかりの畑を作ろうかしら」と、言ったら、「そんなの機械を使えば簡単だからすぐやってあげますよ、下地の腐葉土や肥料もいれて上げます。此処と決めたらしるしをつけて遠慮なく電話をください。この頃ボランティアに嵌っているのです。」という。改めて私はいいところに住んでいるらしいな、と思った


(以前、今の生田駅は東生田駅といっていた)

              課題 当る
 
H21/03

 

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