杉並の家


昭和23年、東中野のアパートを出て、杉並和泉町の私の実家と同居した。此処には両親、妹、それに母が弱いのでお手伝いのおばさんがいた。父、夫、妹は京王線代田橋駅まで30分歩き、勤めに行った。

同居を一番喜んだのは、私の両親である。一歳の長男を私が迷惑と思うばかりに可愛がった。初めての男の孫であり、主人が大勢の兄弟の末っ子なので婚家先に遠慮がなかったせいもある。

父は「孫自慢で、孫の写真を見せたがる人がいる。自分はあんな事は絶対しない、と思っていたのだが、実際となるとその気持が解る」と言う。一年経って次男が生まれた。その頃の籐製の大きな乳母車に二人乗せて買い物に行った。
食料は配給で、登録して決まった店で買うので、魚屋さんは入荷すると鐘を鳴らしながら自転車で細い道を触れ回った。

杉並にいた頃で印象に残っている事を記してみる。



  外国の援助衣料
ララ物資と言うのか、アメリカから送られてきた古い衣料が配給になった。母が配給所に行って、私の分を選んで来た。確かに着古した感じの服だが、私の体にぴったり合い、焦げ茶色の地に白い水玉模様のワンピースは色も形も素敵で、自分で手造りしたいい加減な服を着ていた私は大事に使った。

  佃煮や
浦安から佃煮を入れた大きな籠を背負った元気の良い佃煮や時々がやってくる。話が面白く、佃煮の味が良く、男が来ればいつも買っていた。しかし、天秤ばかりで、目の前で目方を量って売るのだが、その手つきがいつもおかしい。家で台秤を買ったので後で計ると3割も足りなかった。次に来た時、台秤を見せると顔をみせなくなった。

  中華麺
その頃、茹で麺は勿論、生麺も売っておらず、小麦粉が配給になると製麺所に粉を持って行き機械で麺造りを頼んでいた。家では鶏を飼っていたので、中華麺の時は卵を一個入れて貰っていたが、ある日、私の麺をみた相客は「卵の入ったそんな贅沢な麺を食べてみたい」と言って羨ましがった。今、スーパーで気安く売られている卵を見て時々思い出す。

  夫の母
引っ越してまもまく、71歳の夫の母がこの家に訪ねて来られた。姑が長男家族と住んでいた青山の家は空襲で焼け、その頃、姑は千葉の次男の家族と一緒だった。この半年前に、本家を継いでいた長男が49歳の若さで病気で亡くなっている。
 姑は雑談のあと、50半ばの父に「お父様にお願いあるのですが」」と言って居住いを正された。母や私が何事かと見ていると「長男が亡くなり、私はすっかり年を取り、私はこの息子(私の夫)に何もしてやる事が出来なくなりました。お父様、どうぞ先々宜しく面倒を見てやって下さい」と手を付き、深かぶかと頭を下げられた。私の家よりずっと豊かなな暮らしをしていた方なのに、こんな事が出来るなんてスゴイと思った。それから半年して亡くなられた。

3年同居して、夫の勤めがあまりに遠いので、私達はこの家を離れた。父は買ったばかりの洋服箪笥と、自分の使っている皮のカバンを夫にくれた。

H17/03



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