姑の言葉

 姑は終戦後じきに七十二歳で亡くなったので、私との付き合いは三年ほどしかない。夫は十人兄弟の中の十番目「八男」である。

 夫の祖父は明治時代、土佐から出てきて商売に成功し、昔は大金持ちである。
 夫が九歳の時、父親がなくなると、経済が左前になり、東京の青山にある広い屋敷はだんだんと狭くなり、家の周りにあった貸家は一軒一軒と売られていった。それでも夏は避暑に、冬はスキーと生活を変えなかったので、夫は子供心に、自分は無一文の暮らしから始めるのだろうと覚悟していたそうだ。

 終戦後、双方の実家は空襲で焼け、仮住まいをしていた。私たち新所帯の食卓は蜜柑箱二つに布をかけたものだった。暫くして田舎の親戚から古い折りたたみの座卓を貰う。そのころ長男夫婦と一緒にいた姑は、焼け残った荷物のなかから、小物類の何点かと一緒に、夫の子供の頃や祖父母の写真を、7,8枚を持って来た。姑が勝手に持ち出したものらしいが、今も私の家のアルバムに貼ってある。 

 しっかりした姑なのに私には何も注意がないと思っていると、義姉は「今まで何人もの嫁達と遣りあった後で、もう疲れ果てているのよ。一番下の嫁で得をしたわね」と笑った。

 あるとき、コロッケを買って遊びに行くから、と姑から連絡があった。そう言われても別に何かを作らなくてはと実家の母にいわれ、朝から何品か作ったが、要らなかったように思えた。私の実家のように、新潟風の懇切丁寧な付き合い方と違って、この家はしきたりに縛られないあっさりした家だった。



 戦後、夫の勤める化学会社は何年経っても給料が少なく、遅配が続く。玄関に現れる集金人に、お金がない、と断りを入れている私の姿を見ていた夫は言う。
 「おふくろには小さい頃から”仕合わせは金で買えないよ”と、繰り返し教えられた。でも今、金の無い我々が周りをみると、金で買える仕合わせはたくさん有るように見える。お袋の言った金と、我々の求める金とはレベルが違って、噛み合っていないんじゃないか。」
 
 没落してゆく家の中で育ってゆく末の子に、姑はお金と仕合わせは連動していないことを教えたかったのだろう。 
 私は大金持ちの中にいた姑がそういったのだから金持ちにはそれなりのマイナスもあったのだろう、と思った。


 先日、私は息子が小学生の頃に社宅で一緒だった友人と新横浜で会った。いつも社宅時代の貧乏話が繰り返される。同じ戦いの中を潜り抜けたような連帯感がある。

「いつも月末になると子供の貯金箱の中だけが頼りだった。集金人にお金が払えず、お金が入るとバスに乗って営業所まで支払いに行った。一日中スカーフの縁かがりの内職をするか、爪に火を点すような倹約をするか、どちらかだった」

「でも」と、今日は此処で終わらなかった。
「よく考えてみればお金が無いといっても、ご飯の食べられない日は一日もなかったのよ。今、年金を貰って、ホテルの四十一階で景色をみながらランチを食べているなんて、結局私達はとても恵まれていたんじゃないかしら」という結論に達し、終わった。

姑の「仕合わせは金で買えない」は私達の暮らしを精神的に支えていてくれたようだ。

H18/06

 

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