シューベルトの冬の旅


戦争中の昭和19年、戦局はますます厳しくなり、女学校を出て専門学校最上級生になっていた私達は学徒動員で、学校を離れ、軍需工場に行っていた。そんな中、歌舞伎座で「動員学徒慰労の日」があり、歌舞伎を見せていただく半日があった。あちこちの工場に分散して動員されていたので、当日は、友人との久々の顔合わせを喜び合った。

客席の後ろから見ると左半分は男子学生、右半分は女子学生で、びっしりと埋まっている。男子学生の殆どは黒い学生服に、カーキ色のゲートルを巻き、私達は、三つ編みにしたお下げ髪を乱れぬよう頭上で止めていた。私は工場支給の、なっぱ服が便利なので羽織っていったがその仲間が幾人かいた。

開演の直前、「15分程、開演が遅れます。」とアナウンスが流れた。すると直ぐ3、4人の男子学生が立ち上がって、舞台の前に飛び出してきた。1人が「これから短い時間ですが、皆で合唱しましょう」と呼びかけた。2人が大きな紙に書いてある歌詞を広げる。シューベルトの冬の旅だった。中央の学生が皆をリードし、私たちは書いてある歌詞を追いながら、一区切りずつ歌っていった。

「果て無き野にいずれば、霜に枯れし、冬の自然・・・」劇場に不似合いな合唱が、大きく響く。一区切りずつ練習して、次に初めから終わりまで通して歌った。丁度そこで開演のベルが鳴った。

この冬の旅の音楽が聞えてくると、私はいつも戦争中にスリップして満員の歌舞伎座の動員学生達が眼に浮かんでくる。

私はこのように覚えているのだけれど、数年前、十人程のクラス会で、この話を出してみた。殆どの人が歌舞伎座にいったのを覚えていないが、一人だけ「たしかに歌舞伎座に行った。役者は、先代の誰それだった。あれから暫くして歌舞伎座は空襲で全焼したのよ」と言った。

たった15分のおまけの様な合唱を、私だけがどうして心に残って覚えているのかと理由を考えてみる。前年、学徒出陣があったが、残っていた理科系の従兄弟が、ここの中にいるのではないかと満員の会場を何となく見回したこと。そして小学校から女だけの学校にいた私は、屋内での力強い混声合唱を聞くのは初めてだったことだ。

あの頃の学生達は自分のやりたいことを実現する機会や時間が、殆ど確保出来なかったのだ。

H16/07

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