従兄弟

戦前、東京の麹町には父方の叔母がおり、子供の頃は其処の二人兄弟とよく遊んだ。其処のお祖父様は、昔、陸軍軍医少将で、遊びに行くと上品な凛とした未亡人のお祖母様が座っておられた。

Kちゃん[大正10年生、私より2歳上」は其の家の長男だが物静かな、気持ちの優しい子だった。早稲田大学に入ると、よく家に来るようになった。学校から歩いて3、40分で来られたと思う。学生服はいつもアイロンがかかっていた。



家に来ると彼は玄関のすぐ横の応接間に入る。
そこには蓄音機と、父が私達姉妹の為に買った「世界音楽全集」のレコードがずらりと並んでいた。私達はちっとも有難がらず、放ってあったのだが、Kちゃんは、音楽が好きで、一人ソファーに腰掛けて何時間もレコードを聴いていた。(当時は蓄音機のある家は少なかった。)
卒業が近くなると、前にも増して連日の様に来ては、音楽のひとときを過ごしていった。時には友人も連れてきた。

昭和17年、彼が大学を出て軍隊に入る時に私の家で「送る会」をした。私は学校を休んで料理を手伝った。学校で習った、きれいに飾ったカナッペや、りぼん付きみかんゼリーは、食卓を明るくした。

彼が入隊して何ヵ月経った頃、私が学校から帰り、入れ違いに、母が買い物に出かけた。一人、一番奥の部屋の炬燵に入っていると、縁側で人の気配がした。そちらを見ると、軍隊に入っているはずのKちゃんがいた。カーキ色の服を着て、しかも赤い顔をして笑い、今までと全然人相が変わっている。何か言って縁側からずんずん上がってく来た。

「男はけだもの」と言う言葉がとっさによぎって、すぐ、隣家に面した2つの窓を大きく開けた。Kちゃんは当然のように炬燵に入り二人になった。

あんな饒舌なKちゃんを見たことが無い。次から次へと軍隊生活を面白おかしく話す。左掌に新しい大きくひきつった傷跡が見えたので,聞くと「ちょっと」と言って傷を隠した。短い間にすっかり変わってしまって、軍隊に入ってどんな経験をしたのだろうと思った。母が帰り、父が帰り、夕食を一緒にして皆に見送られて帰った。

それから何ヵ月か経って、ガダルカナルで戦死したという知らせが入った。あれは前線に送られる前の、お別れ休暇、だったらしい。ガダルカナルでは餓死が多かったと聞いて、彼は真っ先に駄目になったろうと皆で話した。

あの時酒の勢いを借りてきたのだろうか。嘆き悲しむ叔母をみて、娘だった私はこんな事を考えていた。「貴女がkちゃんを産んだから悪い。親は寂しくても、子を世に出さないのが、一番の愛ではないか。」

戦争は不幸なことだが、あの戦争が無かったら日本はどうなっていたろう、と私はよく考える。動乱が起きたり、体制が変わったり、他所の国から圧迫をうけていたのではないか。

軍人が威張って世を支配していたり、昔より、貧富の差がもっと大きかったりして、こんな平和で平等な時代が60年も続くなんてあり得なかったと思っている。若い人は平和があたりまえのように思い、それを基準に物事を考えているが。

敗戦後、戦った相手のアメリカから食料や衣服が援助されてきた時、世界にはこんな国があったのかと驚いた。当時の日本人には想像できないことだった。各国の考えや事情が違うのだから、理想や自分の考える正義だけでは国は守れないこと、強くなければ負けることを経験した。核の無い日本は憲法を頼りに玉虫色の外交をしながら、良くここまで来たと思っている。

もう歴史の中に埋もれかかっているが、平和を享受する事無く散った男達の姿を私は時々思い出す。あの頃、これが別れになるのなら、靖国神社で会おうと言って見送った。無謀な戦いをした戦犯が祭られていても、それを無視して、短い命を終えた人々に語りかける事は出来る。

主人が健在の頃から咲いている白粉の花が、種を落とし今年も咲いているが、何にも残さずに今の日本を支えている多くの人達の事を考える。


H16/08

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