小学校のころの運動会



N女子大付属小のころの運動会は大学「戦前は四年制の女子専門学校」から女学校、小学校、幼稚園「男女」「まで一緒になって行った。まだ男女共学の大学は殆ど無かった。私は昭和六年小学校入学だが、その頃は父親といえども、男性は運動会を見るのは禁止されていて、記憶の通りなら、女性だけしか見に行けなかった。学生は今のような短いパンツ型でなく、ひだのついたスカートを絞った形のブルマーで、運動しても肌をたくさん見せない形になっている。

運動会には、きらきらとした白い制服を着た戸山陸軍軍楽隊の十人くらいが、毎年運動会場に来て、貴賓席のあたりで、進行にふさわしい音楽を絶えず演奏して盛り上げていた。このころN女子大の運動会は有名だったらしい。時には女性の皇族が見えていた。

運動会は幼稚園生のお遊戯などから、体操、ダンス、リレーいろいろあるが私の出場した,小学四年生のときの跳び箱は、よくおぼえている。小学校の中では大抵の同級生が、跳び箱の四、五段くらいは飛んでいたのに、運動会場では同級生の五十人、全員に三段を飛ぶように指示され、がっかりした。安全を第一に考えたのだろう。三段でも一人一人が飛ぶごとに回りの大勢の女学校、大学のお姉さん達から大きな拍手をいただいて気分を良くした。



日本式バスケットというのがあった。いい加減の記憶だが、長い竿のてっぺんに玉のはいる籠をつけた玉取り棒を紅白準備する。運動場の左右に紅白の陣地があり、十四、五人で赤や白ボールの取り合いをしながら赤組なら、赤の玉受け籠に赤玉を投げ入れる。ゴール地点の狭い限られた範囲の中に玉うけ棒を持っている児童「一人」は、棒の上の籠を四方八方に動かして飛んでくる自陣営の玉を籠の中に収めようとする。他陣営の人はこれを妨害するように動く。最後に籠にはいった玉の紅白の数を数えた。これは運動会の華の競技だった。

全校紅白に分かれてのリレーもある。軍艦マーチ、「護るも、攻むるも、黒金の浮かべる城ぞ頼みなる」の節で、赤白、歌詞の異なる「替え歌」応援歌を歌って赤白応援合戦をした。最後は、すがすがしいエールの交換で終わった。
こんな運動会は、時代の流れで、まもなく行われなくなった。

私の父は、昭和十九年九月の戦時中、私の半年短縮の大学卒業式に、初めて母と並んでN女子大校内を歩いた。


皆さまへ
来月には92歳になります。体力的な限界を感じますので、またしばらくお休みをいただきます。
今まで何とか続けられたのは皆さまの暖かい励ましのお陰と感謝しています。
ありがとうございました。

H27/10
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