地方にすむ友人から、娘さんがエッセイで大きな賞を頂いたと、顔写真の載った新聞の切り抜きを入れた封筒が送られてきた。母親である友人は、どんなに鼻が高く嬉しいかしらと思い、その喜びが伝わってきた。久しく賞なんていう言葉を忘れていたが、そうそう、昔、私にも賞に関係したことが有ったと、思い出し、本棚の奥から一冊の本をとり出してきた。

昭和六十二年、私が六十三歳のころ、俵万智の「サラダ記念日」が出版されて、ブームとなり、新聞にテレビにその本の情報が溢れていた。その本を買うと愛読者カードが付いていて、「あなたの一首をどうぞ」という欄があり、そのカードに自分の詠んだ短歌を記して発行元に送るようにとテレビで宣伝していた。

それまで短歌とはおよそ縁が無く興味もなく過ごしてきた。しかし現代の言葉で感情を表わした俵万智風につくるなら、私にも出来るかもしれないとふと思い、すぐ試しに最近、身近にあった出来事を指で数えながら短歌風にしてみる。すらすらと、一首が頭の中に出来上がった。

ちっとも苦労をしていないのに、案外と自分にしたら上出来のように思えた。折角作ったのだから、応募する一員になって送ってみよう。しかし応募して、送るには「サラダ記念日」の本を買って、応募カードを手に入れなくてはならない、と考えていると、その夕方、夫が「サラダ記念日」を買って帰宅した。



夫は六十台の初めから心臓を患っていた。後で聞くと、心筋症という病気で心臓移植しか治る当てが無く、(今は治療法があるようだが)その当時は癌と同じく医者が患者に告知しない病気とされていた。有名病院を幾ら回っても、はっきりとした病名を聞かされず、割り切れないまま年毎に弱って、体調が悪くなり歩くのが困難になっていった。こんな調子でも高度成長期の恩恵を蒙り、子会社に籍をおき、時々会社に出かけていた。

夫は趣味として木彫りをやっていたが、材料や道具が重くて、六十代の半ばにはもう教室に通えなくなっていた。月一回行く短歌教室は十数人中、男性は二人で、大事にされ、楽しくやっている様子なので、新宿教室への往復は私が付き添った。

夫の買ってきた「サラダ記念日」の本に挟まれていた応募カードを見て、短歌を習っている夫が応募したいのではないか、それならもう一冊本を買わなくては、と考えながら「本に付いている応募カードを私が貰っていいかしら」と聞くと「いいよ」と簡単に言うので、それに乗って、私はすでに出来上がっている短歌を応募カードに書いて投函した。

応募したものの、すっかり忘れて半年位経った頃、河出書房新社から突然封書が届く。
 「・・・さて、二十万首を越える作品を対象とした厳正な審査の結果、あなたの作品は優秀賞を受賞されましたので、此処に謹んでご報告申し上げます」とあり、続いて「わたくしたちのサラダ記念日」という新刊本と賞状、賞金二万円が送られてきた。

 本を広げると最初に、サラダ大賞一名の短歌があり、続いて優秀賞者十名の短歌が載っている。二十万首の中からよく生き残って十一首の中にはいったものだと驚く。ちっとも努力せず、初めて詠んだ一首が当選してしまって少し変な気持ちで夫に報告したが、夫がなんと言ったか覚えていない。

当選した短歌は、「目覚めれば、テレビの明かり煌々と、退職の夫(つま)座して見て居り」というものである。

 気楽な会があったのでこの本を回して見せると、シニア男性は「身につまされるな」と言って苦笑いをしながら褒めてくれた。長年短歌に励んでいる友人は「短歌としてはすこし外れているけれど、短歌の入選でもらう賞はせいぜい二千円なのに、たった一首で二万円とはすごい」と言う。

 少し遅れて姉に本屋でこの本を買って、報告がてらに送った。直ぐ姉から電話が懸かってきた。姉の第一声は「本に載ったのは偉いけれど、kさん(夫)が少し気の毒な気がした」と言う言葉。短歌が思いがけず表舞台に出たものの、何となく割り切れない気持ちがしていたのはここだったのだ。 

 情景としては共感を持たれたとしても、夜中に起きて座ってテレビを見ている夫の姿など、短歌に詠んではいけないのかもしれない。

 あれから二十年以上も経って、再び本を読み返す。夫は材料にされてあまり嬉しくはなかっただろう。何かに付けて言われる品格と言う言葉には当てはまらない短歌だな、と思いながら本を元の本棚の奥に納めた。
  


 
H23/03

 

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