三姉妹



  
私は三人姉妹のうちの中だが、一昨年は姉が、去年は妹がなくなり、今の世にいるのは私一人となった

姉は八十九歳のとき、胸を骨折して二週間大病院に入院したら、全く自力で歩けなくなり、多摩川べりの老人ホームに入った。一年半後、急病で、一週間で亡くなってしまった。離れていても、電話をすれば、いつでも雑談ができたのに、寂しくなった。

小さい頃、私にとってこの三歳違いの姉は、いやな存在だった。姉と九歳違いの妹ばかりをかわいがり、中の私には何事につけても厳しくあたる。小学低学年のとき姉が申年生まれなのを知って、猿の悪口の歌を作って歌い、妹にも歌わせ、憂さを晴らしていた。
成長して少女歌劇や、映画を見に行く頃は意見一致して仲が良い。



はじめの私が所帯を持ったアパートは、姉の家に近かったので、よく子連れで姉の所に遊びにいった。姉の家はお姑さん達と一緒で、義兄の弟妹などのの出入りが多く、義兄が会社の部下まで連れて来て泊めるので、付き合いの大変な家だった。しかし、姉は社交上手で、適当にそれをこなしていた。集まりで、不意に挨拶を指名されても、直ちに気の利いた挨拶ができる。妹夫婦と一緒に住んでいる父母の暮らしにも、長女として常に気配りをしていた。

妹は大学卒業後、中央の官庁に入り、難しいと聞く試験に受かった。戦後すぐなので、そのまま、役人の道をすすんでも面白い人生があったと思うが、その時代は、婚期にしばられ、家名を継ぐ事も大事だった。開業医を養子に迎え、庭の一角に医院を建て、その経営を手伝った。そして同居の父と、パーキンソンシ病の母の世話をした。姉や私が泊まり当番で行ったものの、母は手がかかり、常に手伝いの者が要って、普通のサラリーマンではとても生活が維持できなかっただろう。

妹は中年で大病を何度かしており、よくここまで生きたと言われている。十年ほど前、妹の夫が亡くなってから長野県で家具工場を経営している長男のところに呼ばれ、息子夫婦や孫たちと同居していた。長男の妻が、妹の面倒をとてもよくみてくれ、土地の習慣にもなじみ、連れて行った猫と一緒に穏やかに過ごしていた。

中の私はどうかと省みると、夫が末っ子で気楽だったのか、私の所に、初めての男の孫が生まれたとき、父は、不公平と思われるほど可愛がって連れまわした。お正月には暮から実家に行って泊まり、夫は、酒の飲めない父と一緒に、来客の相手をするのが決りとなっていた。姉や妹のような豊かさはなかったが、私は気楽な暮らしに恵まれ、ここまで来ている。




H25/11
 




 
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