れい子さんの誕生日


六月の末、友人れい子さんの長女A子さんから、母親のれい子さんがこの七月五日、九十八歳の誕生日を迎え、その日、お祝いに松本楼のイベント付ディナーの会にゆきます。 Mさんも一緒に行かれませんか、とのお誘いがあった。松本楼のランチは頂いたことがあるが、ディナーは初めて。こんな機会は又と無いので、早速喜んでお供させていただくと返事をした。娘のA子さんは、今、都心で語学の会社を経営されている。

日比谷公園の中にあるの孫文とゆかりの深い松本楼の名は、昔からよく知られている。戦災をまぬがれ一時、海軍やGHQに接収されたが、昭和四十六年沖縄闘争の時焼打ちに会い、建物焼失。昭和四十八年再建した。

母親のれい子さんと私は昭和四十九年、横浜家裁に同期にはいった仲間で、私より八歳年上の方である。長崎県のご出身だが、学校の同級生とは、もう誰とも連絡がとれなくなったそうだ。家裁で仕事をしていた頃は、お仲人を趣味のようにしておられたので、私の友人の娘、息子さんや、私の親戚の者までご縁をお願いして、五組成立、それらの結婚式には一緒に出席している。
田園都市線沿線にある家には今、れい子さんは長女A子さんらと一緒に住まわれている。れい子さんとは電話でのやりとりはあるが、お目にかかるのは、四年前、青葉台駅上の食堂で同期会「大正生まれ」をして以来である。

七月五日、江田駅近くに車に乗られたお二人と待ち合わせた。れい子さんは赤や黄、青などの混じったカラフルなワンピース姿で、四つ脚付きの杖を持って、歩かれている。

三人の乗った車が日比谷近くなると、運転されていたA子さんが、時間が少し早いので、宮城付近の景色をドライブしてご案内します、と言われた。皇居前の広々した広場、よく手入れされた松の木々を眺めているうちに、見えてきた新しい東京駅。色彩といい、形といい申し分ない素敵な東京駅となっている。東京生まれの私はすっかり気に入って誇らしく眺めた。

次ぎに新しくなった歌舞伎座をご案内しますと、車は銀座通りに向かって走る。途中、これが外務省です、東京家裁です、とのガイドつき。若い頃、この辺りの官庁に勤められていたので、この辺りのビルには詳しいそうだ。銀座通りを曲がって新歌舞伎座に着く。正面にたむろしている人達をみると、又芝居を観に来たいと思う。



日比谷に戻って、松本楼に入り、三階の決められた席に着いた。比較的若い男女が多く、満席である。司会者のご挨拶のあとにつづいて、女性の古神道についてのお話があった。私の家は神道なのだが、難しくて、よく理解できなかった。次ぎに乾杯、お食事となる。流石に、普段お目に懸からない新鮮な材料の、お料理ばかり。大きな貝柱に久しぶりに生の舌触りをたのしむ。お魚は五島列島から運ばれてきたそうだ。旬のお野菜と一緒にお皿の中に盛られているお料理の彩りがとても綺麗。食事中には着物姿の女性が出てきて、お琴生田流「六段」の調べが流れる。次に能の「清経」}を梅若会の男女二人が舞った。

れい子さんとは久しぶりにお喋りをした。同居の娘A子さんは、毎朝、都心までお勤めがあるのに、れい子さん好みの美味しいお弁当を作っておいて下さるそうだ。ときにはピアノを弾いて、れい子さんに童謡や、昔の流行歌を歌わせて練習させてくださっているので、デーサービスに行ったときは率先して歌われているとか。一緒のお散歩も欠かされない。

この日、私が、とても感心したのは母に対するA子さんの心遣いだ。れい子さんはお年なので、同じ話を繰り返しされることがある。私に対してのとき、A子さんは「Mさんに、さっきと同じ話をお聞かせしていますよ、」と注意して、話しを切る。しかし、れい子さんが娘A子さんに対して同じ話を二度されても、A子さんは「さっき、聞いたばかり」、とは言われない。お話をつづけて聞き、又よく話し合いをされている。私だったら、いらいらして、何か言いそう。私がA子さんに、「お母様によく対応されてやっておられますね」。と言うと「時には泣き度くなる時もあるんですよ」と言われた。

英語が得意だったA子さんのお父様が、A子さんに二、三歳の頃から熱心に英語を教え込まれた話を以前聞いているが、子にかけたご夫婦の努力と愛情が今、れい子さんに還ってきているのだろう。 

お食事も終わりに近い頃、司会者から案内があった。「本日、九十八歳 のお誕生日をむかえられました○○れい子様があちらの席におられます。皆様、ご一緒にハッピーバースデーを歌ってお祝いしましょう」と提案。思いがけず部屋中に、全員のハッピーバースデーの合唱が流れた。れい子さんは嬉しそうに短く挨拶された。会はまだ続いていたが、閉会の前に退席、帰途についた。

れい子さん、後に続く私達のお手本になって長生きしてくださいね。




H25/08
 




 
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