吉野さんと旅行

              
 吉野さんとの旅行は、雨でも仕方が無いと決めて、奥入瀬、十和田湖に六月十四、十五、十六日に行くことにした。
 八十一歳の吉野さんは千葉県千倉生まれ。二十年前、ほぼ同時に新宿の産経学園書道教室に入り、同じ小田急線で通っていた。若い頃、子供の書道教室を開いていた吉野さんは、じきにここの創玄書道会の師範免状をとった。しかし急にリウマチを患って入院。療養温泉病院にも度々行って治療を続けたが無理の出来ない体になった。
「書道をやめたら私には何も残らない」といって、今でも書道の会誌をとり、体を労わりながら、ひと月も欠かさず競書(会誌にある手本の字や、条件の付いた書を書いて送る。翌月その成績が会誌に載る)に応募している。
私も思いがけず心臓をわるくして書道は辞めた。吉野さんとは、家が近く、同じように身体が思うように動かないので、二人で同行者に気を遣わない旅行を今までに何回かしている。

 当日は吉野さんの息子さんが、年寄り二人がマゴマゴするのではないかと心配して、東京駅の新幹線ホームまで送って下さった。 東北新幹線に乗り、八戸駅に着き、奥入瀬渓流グランドホテルの送迎バスでホテルに着く。部屋の窓をあけると、緑の景色の中に奥入瀬の渓流がしぶきをあげ音を立てて流れているのが見える。一日目は和食をいただく。土地の材料を使った料理が運ばれ、美味しい。



翌日は陽こそ差さないが晴れて明るい。十時、ホテルで頼んだタクシーに乗り、運転手さんの説明を聞きながら奥入瀬の川の流れをさかのぼってゆく。川を囲む樹木は未だ新芽の赤い紅葉も残り、緑の葉の濃淡がみせる景色は素晴らしい。木々の間から見える小さい目に付き難い滝から、華やかさを見せている大きな滝が次々と現れる。時々車から降りて、渓流の脇道を散策する人達に混じり、車が待っている場所まで歩く。お天気がいいせいか大分人が出ていた。やがて十和田湖の船着場に着く。遊覧船の甲板には幾人かがいたが、下の客室は私達二人の貸切りとなった。船のアナウンスを聞きながら十和田湖の景色を眺めているうち、対岸の船着場に着く。

先回りしていた運転手さんがすぐ寄ってきて、うどん屋に案内してくれた。有名な、高村光太郎作の「乙女の像」は人が群れており、大分歩きそうなので、遠くから眺めただけでやめた。十和田湖一望の展望台、二ヵ所に上って帰路につく。 ホテル近くのおいしいと聞く「水出しコーヒー」の店の前で車から降りた。

一休みして、足元に気をつけながら林の小道を歩き、「出会橋」の橋の中央から広々とした川の上流、下流の姿を眺める。

ホテルに帰ると、「八重九重の湯」行きの車が出るところだったのでので、少し疲れていたが行くことにした。客は私達だけ。岩の上を流れる滝が白くはじけて露天風呂の横を流れて行く。この日の夕食はバイキング。ホテルでは津軽三味線のイベントがあった。

翌日は昼過ぎの新幹線に乗り、雨にも遭わず、無事、私達の旅行は終わった。

 翌日の昼、電話が鳴った。「お疲れの所、電話して済みません」と、吉野さんのはずんだ声。「たった今、今月の書道の会誌が届いて、競書の近代詩が写真版なの」「それはすごい、おめでとう」吉野さん、初めての写真版だ。

近代詩の書とは、畳、三分の一くらいの大きさの紙に、課題の詩を、字数、文字の形、配置、を自由に、独創的に書いてまとめる書である。お手本になるような出来の良いい数枚が、大きめの写真となって会誌に載る。

現在、先生にも付かず、独学の彼女は特に嬉しいはずだ。彼女のゆったりした字は、年を重ねて枯れた味わいになっているのだろう。

継続は力なり、の言葉が頭の中に浮かんできた。そして吉野さんの書道も私達の友人関係も「継続は力なり」の言葉が当て嵌っている、と考えながら吉野さんとの旅を振り返っている。

 
H18/07

 

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