入院

            
五月半ば、箱根にいった。Yさんと二人で仙石原のホテルで一泊し、翌朝、私達の泊まっている宿に迎えに来たYさんの息子さんの車に乗って箱根を回った。

まず、改装したばかりの山の上ホテルに行く。お目当ての躑躅は、湖を見下ろすホテルの庭園いっぱいに広がり、花は七分咲きである。今まで何回も訪れているが花が生き生きとして今年が一番綺麗な気がした。

強羅公園では公園中央にある噴水や、色とりどりに咲く花壇を眺めながら、あじさい色のアイスクリームを食べる。案内書にある鯛めし屋に寄って予約してあった鯛めし弁当を三つ受け取る。今まで電車の中からばかりしか見ていなかった鈴広のかまぼこ博物館にも寄り道して、広い売り場で多めの買い物をし、帰途についた。

 Yさんの家より駅が手前なので私の家へ先に着く。ちょっと休んでいって、と言うと、運転していた息子さんも一緒に居間にはいってきた。出かけたときの散らかったままだが、これはいつもの事なので気にかけない。お茶の支度をしていると、息子さんが車から三個入りのおはぎのパックを持ってきた。かまぼこ博物館で買ったそうだ。漉し餡の柔らかいおはぎは疲れた体にはぴったり合い、とても美味しい。「ここにお茶があるからついでに鯛めしも一緒に頂きましょうか」と提案すると二人とも賛成した。



 私は鯛めしを二口くらい食べたとき胸につかえるような気がした。鯛めしのそぼろは、本来、もそもそしたものだが、時間が経っているのか、ご飯が硬い。
いままで、散らし寿司の固めのご飯を作った時など、初めの一口で咽喉につかえる感じの時があったが、少しじっとしていると、胃の方に落ちてすっきり収まっていた。
 サービスをしながら、皆と喋っていたが、どうしても今回は食べた物が下に落ちでゆかない。そして唾液が拭いても拭いても口の中にたまる。ティッシュで矢鱈口を拭いているので、Yさんたちも私の異変に気がついた。

 それでも今までのように待てば咽喉から食べ物が胃におりると思っていたが、何時もと違って、どうしても咽喉につかえたままで動いてくれない。呼吸気管の開閉のところは通過してその下がつまっているのだから、呼吸したり喋ったりは出来る。あわてて水を飲んだら呼吸が出来なくなりそう。背中を叩こうか、と言ってくれるが無駄。もう三十分はこの状態になっている。

 救急車を呼ぶことにした。こんな時二人の客がいてよかった。Yさんは一緒に救急車に乗ってくれた。

救急車では救助員が何処に運ぶか迷っていた。一刻も早く異物を吸引する必要は無い。救急車に乗っている間もねばねばの唾液は絶えず口いっぱいに広がり、たくさんのティッシュを使う。体の防衛反応が必死に働いていたのだろう。二駅先の公立病院に運ばれた。

病院に着いて、先ず画像を撮る。咽喉の下の方にくっきりとおはぎの塊が写っていた。美味しくて、ろくろく噛まず食べてしまったらしい。おはぎもお餅ですからね、と先生に言われる。

 お餅といえば、六、七年ほど前、六十歳代の人達数人と手打ちうどんやに寄った時のことを思い出した。ウインドーを覗いていたが、同じ物を注文した方が一斉に出て来るので、同じものにしょうという話になった。 お餅の入った力うどんにしたいと誰かが言うと、一人が「Mさんが心配だからそれは駄目」という。「私は別の物にするから」と、私だけ狐うどんにしたが、何となく不満で今でもその時の会話を覚えている。気を使ってくれた人は正しかった。その頃、彼女は老人病院にいる母親をたびたび見舞いにいっていた。

約四日、病院にいたが、初めの三日間は点滴だけで過ごす。一日位経って咽喉の異物感は消えた。最後の二食はおかゆの入ったお膳が出てきた。胃カメラや血液検査をした。

 結局八十六歳という年齢による老化現象である。年毎に膝が痛くなり、歩くのがよろめいて、すぐ疲れ、不自由になっている。その事は毎日のように感じているが、嚥下作用その他内臓まで同じ様に、昔とは全く違う状態になっているのを、はっきりと自覚せず暮らしていたのが今回の騒ぎとなった。
 

H22/06

 

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