夏休み

          
 私の行っていた小学校は私立校なので世間からみれば豊かな家庭の子供が多かった。 夏休みになる時期が公立小学校より十日ほど早く、大学部と同じく九月十日までなので休みは丁度二ヶ月あった。一学期が終わる終業式の時、夏休みを迎える歌を合唱する。

一番「来たよ、嬉しい夏休み、休みのうちは先生や、父母の教えをよく守り、立派な生徒になりましょう」
二番「避暑に行ったら草を摘み、きれいな貝を拾いましよう。朝は木陰で深呼吸、夕べは散歩に出かけましょう」
三番「・・・それじゃ先生お大事に、それじゃ皆さんさようなら」

上級生になって気が付くと、別荘を持っている家が何軒もあって「軽井沢より」とか「山中湖別邸より」と書いた葉書が時々届く。
私の家は普通のサラリーマン家庭なので、別荘などとても考えられない。夏休みに新潟県の父母の実家にはよく行ったが、これは二番の歌のような避暑とは言えない。

親は夏休み日記に書けるようにと思ったのか、私たち三姉妹を連れて、毎年、海か山に家を借り、十日くらいは、家を離れて過ごした。この時、父の会社の部下、Bさんの家族がいつも一緒だった。 この家の子供は、私より一歳上の女の子、一歳下の男、その下の女の三人で師範の付属小に行っている。母は「Bさんの奥さんは何でも私と競争して真似ばかりしている」と言っていたが、派手な性格の私の母と反対に、昔、小学校の先生をしていたBさんは落ちつき、母の下手に出て、何でも感心して褒めた。



沼津の御用邸に近い海の家では、母親二人は普段着ている着物の代わりに、少し恥ずかしそうにしながら当時流行りだした簡単服を着て海岸に座り、六人の子供達が波うち際で遊ぶ様子を見守る。臨海学校の小学生が砂浜で準備体操している傍を小さな蟹がぞろぞろと集団で移動していた。まかないは二人の母親がしていた。

四年生の時、山に家を借りた。長野県と思うがどこだか覚えていない。借りた家の傍にお寺があり、お寺の家の縁側に腰掛けて花火をする夜があった。お寺の庭は広く、真ん中に大きな池があった。

この日は母と姉は何かの用事で不在なので、私と妹とB家族だけが縁側にいた。はじめは線香花火からはじまる。皆で一斉に火をつけてパチパチを楽しむ。竹ヒゴの付いた小さい花火、だんだん大きくなってそれが終わるとねずみ花火となる。

これは火を着けた途端、急にあちこちに暴れるので怖い。「A子さんやってね」とおばさんに指名された。B家には私より一年上の女の子や男の子がいるではないか。しかしねずみ花火の火付けは初めてではないので、少し離れた石の上にのせて火をつけすぐ逃げた。幾つもやった。

まだ次に得体の知れない戦車や大砲の模様の付いたもの、五連発が残っている。そろそろ火付け役を替えて貰いたい、とおばさんの顔をみるが、何時も顔をそらして気が付かないふうにこちらを見ない。B家の一歳上の女の子も見ているだけで代わろうといわない。まあいいかと、仕方なく最後までやってしまった。勇気があるのね、とおばさんに褒められもしなかった。

おばさんは危ないことは自分の子供にはやらせたくなかったのだと思った。母がいたら私だけに全部火付け役をやらせるなんていうことは無かったと思う。今まで母のいる時みせていた親切たっぷりのおばさんのイメージが一度に崩れ、油断ならないおばさんに変わってしまった。
こんなつまらないことをいつまでもおぼえているが、戦災で家を失った私たち家族に同居しないかと声をかけてくれた中の一軒なので、父母にとっては大事な家族だったのだろう。
      
課題   花火
 
H21/08

 

inserted by FC2 system