流れ
 
川崎市に越した40年余り前は、小田急線町田駅の南側の大通りに衣類雑貨を売っている長崎屋や生地の十字屋、飲食店が並び、まだ家のまばらな生田からよく買い物に行った。

小田急線から乗り換えて国鉄横浜線の原町田(現在町田)駅にゆくには、その駅前の街に続く、くねくねとした細い商店街を10分ほど歩く。その商店街 は小さい店の集りながら活気があった。魚屋は大きなマグロを店の前に置いて、景気の良い声をあげ、豆や昆布が山積みされている乾物屋の店では、おばさんが 商品のいかに美味しいかを宣伝して客の足を止める。左右の商店の賑わいに気を取られながら、横浜線原町田の駅に向かった。

五十歳のとき、週2回ほど、相談係のような仕事をしないかとの話があり、横浜の先の役所に通うようになった。初めは横浜線で行ったり、南武線から 東横線回りにしたり、その日の気分で経路を変えていたが3、4年経つと、町田が開発され、デパート、スーパーが幾つも出来、大きな銀行も並び、すっかり繁 華な街に変わった。

原町田の駅が大きくなり、小田急線と横浜線を2、3分で結ぶL字型の連絡道路が造られ、乗り換えが格段に便利になった。その道の混雑をカバーするように、逆L字型の陸橋の道がもう一本中央に出来る頃は、私の通勤は専ら横浜線まわりとなる。



小田急の改札口を出てから、空の光を浴びて、この新しい陸橋を渡り、横浜線の駅への移動は仕合わせを感じるひとときだった。大勢の学生やら勤め人 と同じように足早に歩き、その人達の群れの中に混じる。同じ速さで反対側から来る小田急線へと向かう人達とすれ違う。私と同じ方向の人達は何時の間にか、 反対側の花壇のある広場に着き、殆どの人が、横浜線の改札口に吸い込まれてゆく。私もその中の1人となり横浜線に乗り換える。その先には私を待っている仕事がある。

息子達が家を出て、生活も安定してきたこの中年の頃から勤めに行くところがあるなんて、予想もしなかった人生の展開である。

仕事の帰りには、町田に着き、見慣れた景色の中に入ると、もう家が近いように思えて、すぐ帰るのが惜しい。その日の気分であちらこちらと寄り道 をする。働いて僅かながらも勝手に使える収入があるのは嬉しく、デパートの洋服売り場をよく覗いていたので店員にすっかり顔を覚えられてしまった。

夫がなくなり、20年間していた仕事をやめてからも、時々機会を見つけて横浜に行った。乗り換えの町田の街は相変わらず賑やかである。横浜線 の改札口の傍にルミネが出来てからは、帰りには先ずそこに寄って1人だけの夕食を思案し、大した用事がなくても、小田急デパートにも寄り、中を歩くのが習 慣になった。

3年前、背中を痛め、入院やリハビリをしたが、一向に良くならない。医者の言うよう、 年齢からして元のようにはならないとあきらめた。重いものは持てないし、あちこちが痛くて杖を持つようになった。半年程おとなくしていたが、横浜から集りの知らせがあったので思い切って出かけた。

帰りの横浜線は通勤や学生の帰宅時間と重なり混雑していたが、すぐ席を譲ってもらい、会の余韻も気持ちよく、町田駅に着いた。もう暗いのでルミネには寄らず、中央の陸橋に向かう。

陸橋を歩き始めて気が付くと横浜線を降りた大勢の人達は私を残し、追い抜いてずんずんと小田急線の方へと向かっている。以前のようにこの人波の中 に入ろうとするが、とても追いつける速さではない。少しの間だけでもと無理に早足の努力をしてみたが、それすらも人波から外れ、自分は流れを邪魔している石のように思える。あきらめて流れを避け陸橋の端に寄った。

昔も私のように流れに乗れず、外れて端をゆっくり歩いたいた人もいたのだろう。その頃は自分の年をとった時の姿など想像せず、独自に歩いている人は私には無縁の人だった。

私なりに歩いて小田急線の改札口に着く。相変わらず辺りは混雑している。気を取り直して食事でもして行こうかと、エレベーターのある方に向かった。

H17/11

 

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