恵まれている今

            
クラス会は一応終わりとしたのに、いつの間にか復活し、この秋も女子大のクラス会があった。

 去年と同じ新宿小田急デパートの食堂街にある中華店に東京周辺の者七人が集まった。世話人が、ランチは三千百円のコースと 四千二百円の二コースがあるが、どちらにするか、前もって出席者に聞くと全員四千二百円のコースと答えたそうだ。

 前菜、ふかひれから始まって次々と料理が運ばれてくる。思ったより品数が多い。エビチリや牛肉炒めものなど。それを一人前ずつに店員が皿に分けてくれる。料理が口に合って美味しかったのもあるが、最後のチャーハン、デザートまで誰一人残すことなく、お皿が空になった。後まで残っていた角煮の脂身まで誰かが完食した。

気を使っている会では、あまり食べられないのに、八十五、六歳の私達でも、気楽な学校時代の友人との食事は、胃袋の状態が普段と違っているのかもしれない。まだこんなに食べられるからクラス会に出る元気があるのだ、と皆で話したが、ふと、昔のある情景を思い出した。

戦後すぐのあるお正月、実家に帰ると、よく知っている父の部下が挨拶にきていた。その人が雑談の中で、「この間、驚いたんですよ」と父に話していた。

戦争中は勿論食料不足だったが、戦後も暫くは、どの家も少ない配給のお米に、雑穀や、お芋、野菜などを混ぜ、何とか工夫して量を増やし、お腹を満たすようにして暮らしていた。その方は五十代、自分の両親と夫婦、育ち盛りの子三人の七人暮らしである。炊いたご飯の量が充分に無いので、このころは不公平のないよう、ご飯茶碗は使わず、炊いたご飯を先ず人数分の丼に分配して、盛りきりにしていた家が多い。前からその方の両親は小食だったので、いつも父母の分の丼は他の人の六、七分目にしていたそうだ。

ある時ご飯がたくさん余りそうなので、両親の分も並の盛りにして、出してみた。多すぎるとも言わず丼を空にする。食べられるんだと知って、次の日も皆と同じにすると、減らして、ともいわず、黙って全部食べきる。次の日も次の日も同じ。

そこで、老人は少ししか食べられないものと思っていたが、両親は食料不足の暮らしの中にいて、若い者並みには食べてはいけないのだと、あえて食べず、又希望も言えずにいたらしい。気の毒なことしてしまったと、その社員の反省の弁だった。

今の私達老人はどうだろう。テレビの中の、タレントが、如何にも美味しそうに口を動かしている高級食材には、私が一度も縁の無かった食べ物も多いが、あまり羨ましいとは思わない。年金暮らしをして、この歳になってデパートの中華料理店でお腹一杯食べられて嬉しがっている私たち達は今、とても恵まれた環境の中に生きているようだ。

そんなことを話しながら、一年あとの、健康での再会を皆と約して別れた。




                       

岡本太郎美術館
    
家の近くの駅から一つ目、向ヶ丘遊園駅の生田緑地の中にあり、孫の小さい頃から、春は桜、秋は紅葉と、よく出かけた。暫く行かないと、ふと、いってみたくなる所だ。昔は駅からバスにのり、山から降りるような形で降りて噴水の池のある広場にいっていた。今年は近くに用事があったのを幸に、一人でタクシーで生田緑地入り口までゆく。何時ものように民家園の中にある蕎麦屋さんに寄った。

紅葉の景色をみながら、岡本美術館まで、のろのろと歩き、幾たびも来た美術館に、入り、さっと中を見てから、中の喫茶店で休憩する。いつか、このすぐ傍にあるメタセコイヤの見事な黄色の並木を驚いてみたことがあったが、この日は少し早い。六、七年前、歳の近い近所の友達四人で来て、真っ赤に染まった紅葉の木の下で写真を撮った。しかし、現在、二人はもう世にいない。時の流れを感じながら周囲を眺めていた。
 

 H21/12

 

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