空襲の日の後


  
昭和二十年四月十三日、空襲で池袋の家が焼けた後の十日ほど、父母と私の三人は防空壕でくらした。
草が生えていないでこぼこの広い野原の風景。

家が焼けた翌朝、私たちが未だ焼け跡に戻らないころ、様子を見に来たのは高田馬場から歩いて来た姉の夫だった。義兄は裏庭の金網の中で飼っていた鶏二羽が丸焼けになっていたので、人にとられないうちにと、齧って食べたそうだ。明るくなって私たちが防空壕に戻った頃、早稲田にいっていた父方の従兄弟がやってきた。彼は理系なので、昭和十八年十月の学徒出陣には行かなかったが、戦局厳しく、この六月には理系の大学生も軍隊に入ることとなっていた。この日も朝早く来て、片付けを手伝った。

池袋駅に近いところの家々は全焼したが、私の家から十分歩く処は燃えていない。
 


翌日、目白駅に近い父の友人からお風呂を沸かして待っているから、と防空壕に連絡があった。その日、父母は他の用事で、どうしても都合がつかず、防空壕にいた私がその家に断りに行った。すぐ帰るつもりでいたのに、先方のおばさんは、私が顔をみせたのを幸いと、私にどうしてもお風呂に入ってゆくようにと勧める。「決して裸なんて見ませんから」といわれ、本当は有り難いことなのに、仕方なく、いやいやながら、初めて他所の家のお風呂に入れていただいた。

このご夫婦は子供が無く、おばさんは刺繍や料理など新しい事をいろいろ習っていた方だった。時々、鶏肉や蟹缶、卵の入った「ビーフン」の大皿を届けてくださった。これはわが家の食卓には現れない珍しい料理で、美味しかったので、今でもビーフンをいただく時は、家族で囲んだその大皿と、そんなご夫婦がいらしたのを思い出している。




H26/09
 

inserted by FC2 system