こしかた


 「こえる」と言う課題がでたとき、私は直ぐ八十八年間の自分のこしかたを考えた。随分苦労の少ない運が私の人生に用意されていた気がする。

先ず大正生まれなのに、女子大にゆけるような家に生まれたこと。何時も女中さんがいて、朝になると「明子様、時間ですから起きてください」と声がかかった。仕事とはいえ、小さな子を様付けで呼ぶのは抵抗があったのではと、このごろ考える。しかし夫や息子たちの会社員務めも同じ様なものだったのかもしれない。 



私は小学校に上がる頃から、割り箸や輪ゴム、空き箱などを材料に、廊下を散らかして、この材料でどうやって何を作るかに熱中していた。その時代、玉を飛ばすと、玉のはいる入り口によって、当り外れのあるお菓子の出てくるパチンコ風お菓子販売機があった。それを街で見て、それにあこがれ、すぐ壊れそうな仕掛けながらも、玉が入れば飴が出てくる箱を作った。父が「変わった子だ、男の子なら工学部に入れるのに」といって感心してくれた。

小学校、女学校を終え、女子大に入る。本来四年間で卆業のところ、学徒動員、短縮卒業で二年位しか授業を受けていない。よく「ご苦労された時代」と言われる。空襲で家を焼かれ、逃げ惑ったとはいえ、女なので戦争にも行かず、それから六十八年も生きているのだから、これだけでも運がいい。戦前、流行していた結核では、特効薬も無く、二十歳にもならず、幾人もの友達が命をおとしていた。

所帯を持ってから、アパート、実家の部屋借り、葉山の間借りと続くが、その次の親子四人、横浜の社宅での貧乏暮らしは忘れられない。化学会社が不況で給料の遅配、減配が続いた。戦後すぐの公務員の給料は安く、最低と言われていたが、その公務員よりこの会社の方が安いのよ、と誰かが調査してきた。内職などして凌いだが、若さの勢いであまり苦労とも思わず、むしろ楽しがって働いていた。

私の人生の中に、五十歳から、七十歳まで、家裁での仕事が織り込まれていたのは全く予想外だった。横浜家裁で調停をしていた夫の姉が、私を同じ職場に紹介してくれた。そのあと二年後に、六十台の若さで義姉は亡くなってしまった。

家裁には週に二回ほど、仕事に行っていたが、仕事のほか法律の研修会や少年院の見学など、いろいろの行事があり、親しくなった友人達と行くたびに顔をあわせ、又、学生に戻ったような気分だった。男女二人で調停をするが、帰りの電車の中ではあれで良かったのかといつも反省しながら帰った。充実していた日々で、義姉から、お金では買えない財産を貰ったと思っている。

前から心臓が不調だった夫が七十歳の若さでなくなったのは残念だった。夫は八男で身一つだったが、母に言わせると私には、過ぎていたそうだ。一緒の海外旅行は二回している、親を世話する立場になく、特別の災難にあわず、又、争う事はできずに、財産らしいものは何もないが、私には随分楽な人生が組み込まれていたと、遠くの父母に報告している。

課題  こえる


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