転ぶ

あっと思ったが遅かった。どう転ぶかと瞬間考え、体を踏み台の上に置いてあるじゃが芋や玉葱の入った野菜籠の方に向けて落としたので、その籠の上に腰掛ける形になり、大げさな尻餅は免れた。けれど瞬間わき腹に激痛が走った。プラスチックの籠が当って、左肋骨が折れたらしい。三月の半ば、朝の十時半頃の事である。

「痛い」と思わず悲鳴をあげたものの、肋骨を折ったのは三回目なので、自身意外と落ち着いていた。この激痛がだんだん引いて一月位で痛みが取れるのを知っているからだ。しかしこれからは当分遠出の外出が出来なくなる。しっかり閉めていない冷蔵庫の扉を、余所見をして勢いよく開けたので余分の力で体が飛んだらしいが、はっきりは覚えていない。

どうしょうか、どんな形で折れているのか今日中には医者に診せなくてはならない。体を動かす度に強い痛みが走り、一緒にぐっと呼吸がひととき出来ない。日曜なのでどこの医者も休診である。マリアンナ大の夜六時から始まる夜間救急センターに行くまで、静かにベッドで寝ていようかと考え、ベッドに行ったが、どう体をくねらせて調子をとっても痛くてベッドに上がれない。

外出用の小さい四輪カートを玄関から部屋に上げ、それに体を預け、そろそろと家の中を移動した。椅子に腰掛けて静かにして体を動かさないようにしていれば痛みはそれほど強くない。



その日曜日はたまたま用事があり、三時に、長男、次男が揃って家に来る事になっていた。私の今の状態を知らせておいた方がいい、と息子たちに電話をした。

しばらくして同じ川崎市内に住む長男が現れた。私がマリアンナ大の夜間救急センターに行くつもりだというと、それでは遅いと、あちこち電話して確かめてくれた。登戸の多摩市民病院がこの日曜日、昼間の診療当番病院で整形医がいるので、これからすぐ連れて行くという。

長男の車に乗って世田谷道を走るが、でこぼこ道や道を曲がるとき、振動がある度に脇バラがぐっと痛み、呼吸が止まる。やっと多摩病院に着いて駐車場に車をとめると、車椅子を用意して看護師さんが迎えに出てきた。待合室には、子ども主婦老人合わせて十二、三人が椅子にかけて順番をまっている。私は車椅子に腰かけて動かなければ殆ど痛まないので、他の人と一緒にそのまま待った。

一時間近く待って整形科の若い医師に呼ばれ、画像を撮った。医者は画像を私に見せて、左わき腹のここが折れていますね、と言い、その手当ての注意とともに救急では一日分しか痛み止めの薬が出ないので、近所の整形医院の所で明日からの分を貰ってくださいと言う。又車にゆれ、時々痛みに声を上げ、息子の運転に、文句をつけながら帰途につく。ともかく医者に見せたのだからこれで一応安心だ。

帰宅すると横浜に住む次男が犬を連れ、私の頼んだ昼用のお弁当を買って家に来ていた。道中のスーパーではこんな物しかなかったと、から揚げが五つも入っているから揚げ弁当。こんなにわき腹が痛く、ろくろく歩けないのに、食欲の方は相変わらず要求し、美味しいと思って食べるのだから自分はどうなっているのかと思う。

貰った痛み止めの薬を飲んでだんだん痛みも軽くなってきた。私の出来ない家の雑用を息子に頼み、駅前の売店で買ってきて貰った寿司で夕食を終え、二人は八時ごろ家に帰っていった。

寝る時間となる。これは一仕事だ。ベッドに上がり、体を上向きに安定させるまで痛みを避けてあちらこちらと工夫して掴まりながら動くのは、自分しか出来ない。

翌月曜日、午後、長男の嫁が午前の勤めの帰り寄ってくれたので一緒に駅の近くの整形医院に行った。また画像を撮った。骨密度をはかると年齢平均より大分レベルが上と出てきた。この何年か骨粗鬆の薬を真面目に飲んでいるせいかもしれない。しかし背骨や腕を入れると今まで既に五回骨折。こんなに繰り返すなんて、何事でも不注意な行動が多く、太っていて体の安定が悪いらしい。三回は家の中である。

翌火曜日は、市から支援一のサービスを受けているので半年ごとの定期訪問がある日に当たった。地区の支援センター、所属訪問介護所の方々、女性三人一緒の訪問を受けた。転んでから三日目だが痛みも少なくなり三十分あまり雑談をする。

中の一人は看護師さんで「肋骨で済んで良かったですね。変な姿で尻餅をついて、大腿骨や足の骨折だったらおお事で、今こうして家で元気にお話していられませんよ」と言われ、改めて自分はまだ運が良かったのだと思った。

H21/04

 

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