袋の家 小学校


小学校からは池袋の雑司が谷の家になった。池袋駅の東口から明治通りを目白方面に歩いて六、七分、商店に挟まれた道の左側奥に家があった。

ここから姉と同じ女子大付属小に通う。姉妹同じ学校にゆくが、いつもわずかの差で別々に家を出た。子どもの足で学校まで約四十分かかる。家を出て道を曲がるとすぐ墓地があり少し怖い。立派な仁王門のあるお寺、お稲荷さんの横を通り鬼子母神、王子電車の駅をすぎ、目白通りに出て学校に向かう。

王子電車で通う女中さん付き添いで往復する友人がいた。帰り道は四、五人連れになるが、女中さんがいては寄り道が出来ないので、示し合わせて全員サッと姿を消し、女中さんを幾度かあわてさせた。豆屋で彩りの珍しい豆を触ってはおじさんに睨まれたり、お菓子屋の前で、子ども相手のお菓子の出るパチンコ様の機械にみとれたり、街の軒に飛び交うツバメの姿に足を止めたりしながら、あちこち寄り道をして帰った。



鬼子母神の薄暗い参道にあった大きな芋羊羹や餡玉の店、薄で作ったみみづくを売っていた小さい店、お会式の日、法華経の、団扇太鼓のドンツク、ドンツク、ドンドンツクツクと叩きながら、白い装束で後から後から神社に押し寄せる信者の行列の姿が眼に浮かぶ。

小学校では希望者にピアノを教えたので、私もそのお稽古に加わった。しかし譜を見てすぐ曲が弾ける姉に比べて、自分に才能が無いのを自覚し小学校で止めた。今考えると、半端でも弾けたほうがよかった。三越劇場で発表会があり、劇もした。

目白の家で出入りしていた魚屋さんは池袋に移っても家に来ていた。天秤棒の両端に魚の入った箱を下げ、ふらふらと表門からはいって来る。ブランコや鉄棒、鳥小屋のある裏庭に来て荷を降ろし、魚の箱を広げる。魚屋さんは私たちが廊下から見ている前で魚をさばき、近くの井戸で始末をしてから裏口から裏の道へと抜けてゆく。この魚やさんはいつも歌舞伎役者の真似をしたり、冗談をいったりしながら暫く母と喋ってゆく。近辺の情報源としてとても貴重だった。

昭和十一年の二、二六事件の時、私もよく知っているそこの小僧さんが二十歳になり、入隊したが、すぐ、分けもわからず反乱軍となって政府要人邸に出動し、天皇陛下の「兵に告ぐ」のお言葉のビラをみて驚いた、という話を聞かせてくれた。

同じく雪の降っていたこの日、私は六年生で、小学校にゆくと、授業中、女ばかりの学校に突然若い男の人が教室に現れ、先生と少し会話をしてから、Y銀行のトップをしている人の娘さんを連れていった。どうして急に中退したのかと皆で不思議がったが、家に帰ってからこの大事件を知った。四、五日銀行の寮のようなところにいたそうだ。この日のことは印象深く、後年、繰り返しクラス会で話題になった。

H21/04

 

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