紀元二千六百年の祝典


 
読み返すことはないだろうからと、捨てようとしては又拾う、を繰り返していた少女の頃の日記がある。戦争中は荷物と一緒に疎開したり、職場に置いていた。

 女学校の二年生の頃から,終戦前後まで、とびとびながら、「学用ノート統制株式会社」と書かれたノートや、ざらざらした粗末な便箋の表と裏に書かれている。記録というより、どうでもいいような友人関係や、反省が殆どである。 

 大東亜戦争の始まる前年、昭和十五年は女学校の五年生だった。支那事変の最中で兵隊さんが外地で戦っていた。この昭和十五年は、日本独特の数えかたで、神武天皇が即位されてからと数えて、皇紀二千六百年にあたり、十一月にはその祝典があった。
珍しくこの日は、作文のような日記が残っているので、これを写すことにする。



 昭和十五年十一月十日「日」
世紀の大祝典。紀元二千六百年にふさわしい快晴。町々には提灯が飾られ、家々の門には日の丸の国旗が掲げられている。 
      
非常時にかかわらず国民に元気を与えようと、平年のように、何もかも許されてお祭り騒ぎをしてもいいことになった。禁じられていた花電車、お神輿も奉祝の気分を出すものは総動員でこの日を祝う。今日は特別の日なので改まった格好がしたくて髪を整え新しい銘仙の着物を着る。

十一時から宮城外苑でその祝典は始まる。その実況をラジオで聞く。両陛下もお出ましになり勅語を賜る。近衛総理大臣の発声により万歳三唱。陸海軍軍楽隊の奏楽。紀元二千六百年頌歌斉唱などあり、なかなか盛大な祝典の様子だった。一時から学校で式があった。

昭和十五年十一月十一日「月」
 今日は奉祝日なので学校は休み。よいお天気なのに何処にも連れて行って貰えないと思っていたら、急に家族で二重橋に行くことになった。夕食を早く済ませ市電に乗る。途中、花電車を見てから、東京駅で降り、銀座方面に歩き出す。
 街は奉祝の提灯が並んで明るく、今日を限りと、着飾った女の子達が、二、三人連れだって通り過ぎてゆく。銀座通りに近づくとともに、だんだんと人の数は増してくる。
淳治さん(従兄弟)とキミちゃん(お手伝い)も入れて六人、ぶらぶらと人の波に合わせて歩く。どの顔も嬉しさ一杯という顔つきだ。笑顔でない人はいない。なんとも言えない奉祝の喜びが銀座中を埋め尽くしている。

 行く人、来る人、たがいに、万歳、万歳と叫びあう。いい気持ちに酔った大学生の数人が突然「金鵄輝く日本の栄えある光身につけて・・・」と、どら声をはりあげて歌い出す。ぐでんぐでんに酔っている人達もいるが,それがかえって楽しい。喧騒の中を私たち六人は離れたりくっついたりして歩いた。

どの店も奉祝の文字が掲げられ、明るく飾られている。市電、自動車の何時にも増して行き来する銀座通りを、国威を誇る言葉を書いた旗や標識を掲げて、堂々たる青年団の行進、隣組、団体の提灯行列、旗行列が続く。母がやっぱり来てよかったという。久しぶりの開放された人の心、心。

 歓喜の人波は前に後ろに押されながら、馬場先門へ。凄い人出。宮城のお濠に添って、提灯行列の提灯は果ての果てまで続き、その美しいこと、美しいこと。宮城前のビルデングは一室残らず電気をつけ、大都市らしい奉祝表現の姿。鳴りを潜めていた東京の絢爛たる美しさが見える。

 二重橋に続く道の曲がり角には、非常時下によくも作られたと思われるようなヒバの葉を巻きつけて出来た巨大きな奉祝門。奉祝の文字が見える。その脇には物々しさを感じる槍のような形のものがずらりと並び、辺りは照明燈に照らされて、行き交う人々の姿がはっきりと見える。

 その門を通って、人々と一緒にぞろぞろと二重橋へと歩く。カーキ色の服の青少年団員がところどころで篝火を焚いている。

 何時の間にか二重橋の前に来た。大内山の方に向かって、ある人が万歳と叫ぶと、それに呼応して方々から万歳の声が起こり、大きな万歳の声となる。真っ暗な大内山の中には三つの提灯の明かりがみえる。多分女官でも持っておられるのだろう。万歳の声に応じて提灯を上下に振って応えられる。それが嬉しくてもう一度万歳は爆発する。

人々に押されて右の方に歩くと、皇居外苑。其処には、目の覚めるような、御殿が見える。二千六百年の奉祝式場である。

明々と照らされた御殿の中央には、二つのお席、天皇陛下、皇后陛下の御座所であった所である。その様子はちょうど、いにしえの奈良の都にいるようだ。当今、東京の真ん中に、しかも目の前に、このような建物が在るとは信じがたい。

何造りというのか知らないが、左右に赤い朱塗りの欄干のようなものがあり、全体が白く、上から紫色の布が垂れ下がっている。この優美な建物の前には、五万人の功労者が「饌(せん)」を賜ったという席が、広々とした広場を埋め尽くしている。素晴らしい光景だ。暫く留まって眺める。

又もとの奉祝門を通り外に出る。お濠の中の水が風にゆられ、照明に照らされてそのきらめきが印象に残った。たくさんのカメラマンがその辺りの雑踏、歓喜の様子を写している。九時、名残惜しくも帰途に着く。夜遅く皆で記念のお蕎麦を食べる。


午前和服で、午後はセーラー服と忙しい十六歳の頃の私である。この昭和十五年は日本が一番勢いのあった頃だろう。あれから六十七年の月日が流れた。在りし日の父母や家にゆかりのあった人たちの姿を目に浮かべながら日記を読む。
H18/11

 

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