私の母は新潟県の地主の娘である。平家の者が壇ノ浦にの戦いに敗れて定住したそうで、代々日本海に面したところでで廻船問屋をしていた。

母は8人兄弟の末子で幼くして両親と別れ、家を継いだ長姉夫婦の元で育った。、何とか小町と言われ、我まま一杯に育だった。大学に行っていた兄が東京で流行っている最先端のものをお土産に買ってくるので女学校の袴姿に靴を履いたのも、フカフカの白い襟巻きを身に着けたのも、いつも母が最初だったという。お琴は勿論バイオリンも習った。

土地の有力者の娘なので、女学校に県の視学監等の偉い方がみえると、教室から1人呼び出され、お茶運びをするのはいつも母の役だっだそうだ。
特別歌がうまいとは思えないのに、女学校で何か催しがある時は必ず母が独唱をしたというに話には驚いた。東京で育った私達姉妹はそんな贔屓は考えられ無いと言ったが、伯母や母はこれは当たり前の事という。

母は姉妹の中で1人、サラリーマンの父に嫁ぎ、東京に住んだ。私が育った家は、父方、母方の親類が上京した時の定宿となっていた。

私が物心ついたころ、家にはいつも親類の若者が1人か2人が下宿していた。年を経て、父方、母方の従兄弟達が大学に、勤めに上京して来てからは、池袋の家はその溜まり場となった。



従姉妹は家の二階に泊まり、従兄弟達は家から七、八分の下宿屋に揃って下宿をしていた。皆、父や母と同じ高田の中学、女学校を出ていた。夕方から夜になると1人2人と従兄弟達がやってくる。毎日のように顔を出す者もおり、その友達もついて来る。母は冗談を言いながら、皆をもてなす。頂き物の珍しいものは、私達子供の口には殆ど入らないで消えた。

母は神宮球場の6大学野球が好きで、私達を連れて季節ごとに試合を見に行った。水泳競技、芝居、映画にもよく出かけた。呉服屋が来ると座敷で反物を広げ、母がいきいきと呉服屋とやり取りしていた姿を思い出す。田舎への仕送りが大変と愚痴をこぼしながらも、当時の女性にしたら、時代の先端の暮らしをしていたと思う。家事は殆ど人任せである。

その頃派手に見える母を、私はあんな風になりたくないと、いつも反発を感じていた。しかし温厚な父がそれを包み込んで、母は幸せに過ごしていたと思う。

50歳を過ぎた頃、母は穿いていた下駄がよく脱げるようになり、医者に見せるとパーキンソン氏病と言われた。良い治療法が無く、東大病院で半分実験的な手術をうけたが、かえって声が小さくなり、豆粒のような字しか書けなくなった。

新しく引っ越した家の方角が悪かったのかと、占いも見てもらったりして、手を尽くしたがだんだんと体が不自由になった。

跡取りの妹に医者を迎え開業したので、介護が行き届いたのか、母は発病から20年、72歳まで生きた。最後の5、6年は全く身動きができず、声が出ず、瞼を僅かに動かしてイエス、ノーの合図が出来ただけである。しかし頭は最後の方まで冴えていた。

夜は人手が少ないので、姉と私は当番で泊まりに通った。しかし同居している妹の苦労に比べれば大したことではない。

姉妹の中で1人、私がお金に苦労していた時代、ある日、当番で行くと、母が枕元の自分の財布の中から小遣いに2万円もってゆきなさいという。寝たきりの母に代わって、妹が管理している財布なので、「いらない」と断わると、どうして持って行かないのか、と悲しそうな顔をした。何時までもこの顔が残り、妹にどう思われても、あの時貰えばよかったと今でも時々思い出している。もう40年も前のことだ。

人一倍華やかな始めの半生に比べ、後半は随分不運な人生だったと思う。
人間の一生はバランスが取れて出来ているのかもしれない。

其の頃の72歳という年は随分年寄りに思えていたが、母の年をはるかに越えている私達3姉妹は、母はどんなに辛い日々を過ごしていたのだろうと、話し合っている。

H18/12

 

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