川崎に越す


昭和37年、息子が中学生の時、川崎市の小田急線の多摩川を越えた処に引っ越した。その頃は電車も本数が少なかった。

昔からこの辺りには、私の通っていた学校の所有する広い土地がある。殆ど雑木林だがその中に、運動場や畑、寮が点在していた。女学校の頃から、運動会、栗拾い、畑の雑草抜きなど、機会があると此処に来ていた。当時の駅前は八百屋さんが一軒だけだった。

夏休みには寮に数日間泊まって修養会があった。人間のあり方についての講話を聞く。その時代、東京ではとても手に入らない此処の名産の美味しい桃が毎日食卓にのぼった。

引っ越した頃も、まだ一帯田舎で、竹林、梅林、白い花をつけた茶の垣根があり、お茄子、さつま芋、玉蜀黍などの広い畠があった。

庭を得たので、植木より、先ず梅、桃、栗、金柑、無花果、柿、柚子を植えた。真っ先に日当たりの良い庭の真ん中に植られた金柑、と3年柚子は毎年沢山実をつけるので香りのいいママレードを作って他所にあげた。

年数がかかると聞いていた、とげのある本柚子も一緒に植えたが、40年近く経った一昨年、初めて10個ほど実をつけたのには驚いた。しかし昨年は又実がならない。他に、今も残っているのは、柿と梅だけである。



横浜でやっていた人形作りは、川崎にきてからも続けていた。
ある時、即金で受け取っていた代金が、来月まわしとなった。

翌月、指定されたビルに行くと、部屋には掛取りの男の人たちが十数人いて面接の順番を待っている。馴れない雰囲気の中、戸惑いながら事情を聞くと新しく出来た横浜のダイヤモンド地下街に別の2店を出店したので、その関係で支払いを延ばしてほしいという。この辺りが人形をやめる潮時かと思った。大した金額ではないが、十年間お世話になったので残金は不要として終わりにした。私は40代半ばである。

このころ、地方にいる友人から、「たった一週間でいいから、貴女の生活と、代わってみたい」と便りがあったのを思い出す。
私は、お金を得る為としても、親、その他の事情に縛られる事無く、自分の考えのままに行動して過ごして来られた。こんな自由は誰にでも与えられている事ではない。

あと10年くらいしたら、手提げや小物、手芸品を売る、豆粒のような小さな店を持ちたいと夢を描いた。図案や、刺繍、等をを習いに行った。

50歳の時、週に何回か役所の仕事をすることになり、夢は何時しか忘れ去らた。夢の店を手伝いたかったのに、と友人は残念がったが仕方が無い。

夫は徳山コンビナートの工場長としての単身赴任、息子達の結婚、あれこれを経て、現在に繋がっている。

H18/03

 

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