女性輝く時代のさきがけ



十月七日、朝起きて、いつものように机上に配達されている東京新聞をひらくと、第一面のトップに、郷農彬子「あきこ」さんのお顔の写真が載っているので、驚いた。この翌朝のNHKテレビでも郷農さんが紹介されていた。

郷農さんは、私が横浜家裁にいたころの同僚、Hさん「九十九歳」の娘さんである。



お母様は私が彬子さんと大学が同窓なので、何かと親しみをもっていて下さり音楽会や食事会に誘ってくださる。私のH・Pに、その時の様子を何回か書かせていただいた。単調な老人ホームの暮らしの中で変化のある貴重な日となっている。

 東京新聞の郷農さんについての表題は「1964年に行われた日本のオリンピックは、女性輝く時代の先駆け」となっている。
今は日本人女性の金メダリストが多い柔道やレスリング、マラソンも、五十年前の前回の東京五輪では男子だけの競技だった。この男性中心の社会だった日本での五輪開催が、社会で活躍するきっかけとなった女性たちがいる、と、前触れの説明があり、国際会議の企画立案や同時通訳などを請け負う「バイリンガル・グループ」社長の郷農彬子さんが紹介されていた。

郷農さんはN女子大の英文科に入学してすぐ五輪の学生通訳に名乗りを上げたが、二年生以上が条件。ところが、「こんなボランティアもありますよ」と紹介されたのが、パラリンピックの通訳を務める日本赤十字社の日本赤十字社語学奉仕団だった。郷農さんは小さいころから、英語に秀でていらしたお父様の特訓を受けられている。

日本赤十字社の一年に及ぶ語学奉仕団の訓練は厳しかった。選手たちを、もてなそうと学生バンドを呼んだ時もあり、ボランティアでもプロ並みに役に立たないと駄目だという責任感を植えつけられた。卒業後は旧文部省に勤務したり、ご主人の外国勤務についてゆかれたりしたが、八十三年に三十九歳で会社を興された。会社は今年三十二年目、三十カ国語、約3千人の登録スタッフを抱えている、との記事だった。

英語が堪能で、教育熱心だったお父様に、私は三回ほど回お目にかかっているが、ずっと前に亡くなられた。現在の娘さんの活躍をご覧になれなくて、他人の事ながら、とても残念な気がする。




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