田舎の家

父の実家は昔の小学校の教科書にも、雪の多い場所の代表として書かれていた新潟県高田「現在、上越市」にあった。高田に行くとスキー発祥の地として知られる金谷山には何度も連れて行かれた。土肌の山の上に記念碑が建っている。しかし、今、夜桜の名所として知られる徳川家康の六男、松平忠輝六十万石の居城、高田城跡は、子供のころの記憶はあまりない。明治の初め、城が焼けてから平成五年に三重櫓が復元されるまで、地味に扱われていたからかもしれない。

子どものころは、煤の臭いのする蒸気気機関車の信越線で上野から十二、三時間かかって高田に行った。いつも、父方、母方の親類が一緒に、改札口で出迎えている。祖父の家は高田駅から歩いて三十分くらいの所にあり、母の出た女学校の校舎の前を通って行く。



私の生まれる少し前、祖母は亡くなって、この家に若いころから仕えていた人が後妻になっていた。母は勿論、私達もおばさんと呼ぶ。さすがにこの家のことに詳しく、曽祖父は八十代、その前の九十代まで生きた人たちの、話をしてくれた。

学校休みに、同じ東京にいる叔母の子供二人と合流して高田の家にゆくと、この辺りの歳の近い従兄弟たちが泊まりにくるので子供は十人以上になった。
倉から出して日に干してあっても、何となく重いような蒲団が用意されていて、仏壇のある部屋と隣の部屋にぎっしり蒲団を敷いて子供たちが寝る。

祖父がキセルで煙草を吸っていた長火鉢の横には、下が褐色の幾つもの引き出しになっている階段があり、二階に昇ると、何も置いていない広々とした部屋が二つあった。この二階にはもうひとつ階段があって土間の方にも降りられるので、私達子供の鬼ごっこやかくれんぼには格好な場所になっていた。その頃は独身の叔父もいて何かと世話をやいてくれた。

 居間から土間を隔てた反対側まで、板が渡してあり、其の上を渡って食事部屋にゆくと辺りは煙の臭いがした。 おばさんの作った漬物、お味噌汁はたっぷりとしていつも美味しい。畠で野菜を作っているので、胡瓜や枝豆、丸茄子などの野菜の味が東京の物とひと味違う。時にはその時代、東京では食べられない日本海の甘エビが出た。

食事部屋の傍にはかまどや、つるべの井戸があり、土間には薪が積み上げてある。井戸の中に吸い込まれる気がしながら、こわごわ、つるべで水を汲んだ。
トイレは倉へ行く途中の土間の薄暗い場所にあり、履物をはいてゆく。古く、がたがたしていて気味が悪いので何時も勇気が要る。春にゆくと黄色の山吹の花がぐるりと敷地の周りを囲んでいた。

この土地に育った従兄弟達の案内で、鬱蒼たる森の中にある神明神社や、我が家の菩提寺の境内に出かけ、虫取りや徒競争をする。傍にある荒川の河川敷では、投石や水遊びで一日中を過ごした。

この川の話になるとおばさんは昨日の事のように言う。「お母さんの嫁入りの時は、先頭の嫁入り行列が橋を渡りきっても、まだ後のほうは橋にかかっていなくて、近所の人に鼻が高かった」これは世間でよく聞く表現だが、時々この話を思い出し、其のころ汽車もあったのだろうに直江津からどんな姿で来たのか、その様子をもっとおばさんに聞いて置けばよかったと思う。

祖父は以前、寺子屋と煙草の葉の栽培をしていたと聞くが、広い畠は無かった。おばさんは遠くに見える畠のあたりを指さして、父たち四人兄妹の学資となったと話す。

高田の町中には父方母方の親類の家が何軒もあって、ここには家族で訪問している。このころは、少し遠い親類でも、田舎から上京すれば必ず池袋の家に顔を出し、大抵の人は泊まったので私達子供も顔を知っていた。

ある伯母は旅館をしていて、宮様方がスキーその他で高田にこられると、必ずそこに泊まられていた。その伯母にはそのころ珍しかった町の洋食やで、普段は縁のない西洋料理をご馳走になった。

田舎に行った時、私が楽しみにしていたのは泥鰌丼。泥鰌を開いて網で焼き目をつけて、たれにまぶして丼にしたもの。これは大きくなって食べた鰻よりさっぱりとしてずっと美味しかったと思っている。もう一度あれを味わってみたい。

私の十歳の時、高田の祖父が亡くなった。以後、田舎の家には、おばさんと叔父の遺した娘がずっと二人で住んでいた。戦後となっても時々、父や私達娘や孫が遊びにゆき泊まった。

叔父の娘が嫁に行き、おばさん、父、母、があいついで世を去って数年経ち、空き家の雪下ろしが負担になってきた三十年前、家の前に新しく広い道路が出来ることになった。買いたい人が現れ、この家は売られ、何軒にも分割された。

この話を聞いてから、私は一度もこの辺りに行っていないので、現在の景色は全く想像できないでいる。私の姉妹はいまだ健在だが、あんな元気だった従兄弟たちは、もう三人だけになった。
 
H20/02

 

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