池袋の家  女子大



昭和十六年十二月八日、私が女子大一年のとき太平洋戦争が始まった。ラジオで「戦闘状態にいれり」の放送を聞いてから、家を出る。その頃の池袋の冬は、毎朝道に数センチの霜柱が立っていた。さくさくと霜柱を踏みながら神社の境内を通り、不安と高揚の混じった気分で学校に行った。

連勝の景気の良いニュースばかりの中に、転進という言葉の情報も混じり、少しおかしいのではと思い始めたころ、明日、海軍軍人の講演会が学校の講堂であるというので聞きたいと思った。しかしその日、新潟県にいる従兄弟の一人に赤紙がきて上京、東京の親戚に挨拶に来ることになった。其のころは女中さんもいず、姉は嫁して私が手伝わなくてはもてなしの料理が出来ないので、私は初めて学校を休んだ。其の夜、父はその従兄弟を品川駅まで一緒に電車に乗って付いて行き、見送ってきた。この従兄弟は還ってこなかった。

翌日学校に行くと、昨日の講演会の話でもちきりだった。講演をした海軍将校は新聞ラジオが報道しているものとは大分様子が異なり、戦争はかなり日本にとって不利なものになっていると語っていったという。 



其のころだったか映画館で「世界に告ぐ」という映画が上映された。ドイツ映画だったと思う。あらすじは平和に穏やかに過ごしていた小国が大国のエゴによって侵略され、滅びてゆく話である。私それを見て日本が重なって不安になった。多くの友人も見ているので、クラス討論の時間に友人の感想も聞きたいと思ったが、日本が負けるかもしれない、なんていう話はどうしても出来なかった。

空襲に備え、消防署の方が学校に見え、手押しポンプの手順の講習を受け、ホースをのばし水を出す練習をした。やがて学校工場から、学徒動員となってゆく。
近所の若者も次々と出征していった。母は愛国婦人会や国防婦人会のたすきをして、出征兵士の見送りに出かけていた。

二十年三月、東京下町の大空襲のあと、四月十三日池袋周辺にもB29三百機三十機の空襲があり、私たちは池袋駅の近くの避難所とされていた根津山に逃げた。其の時代、探偵小説作家として有名だったの大下宇陀児氏がうちの隣組の班長だった。カーキ色の服にメガホンをもって、避難所で人数確認をするなど活躍されていた。

防空壕で暮らしていて、三、四、日たった頃、女の子が遠くから何もなくなった焼け跡の道を歩いてきた。防空壕から出ている私を見つけると、にこにことして手を振る。同じ隣組のk子だ。四年下の妹と同じ年だが父が無く、母親が働き、伯母さんの家に同居している。小さい頃はブランコに乗りに来ていた。

彼女は空襲の日、疎開していたので根津山の避難所にいなかった。私は、k子の母親が根津山の焼け跡で起きた竜巻の為、トラックの下敷きになって亡くなっているのを知っているので、手を振り返す事が出来なかった。やがて伯母さんの防空壕から彼女のつんざくような大きな泣き声が聞えてきた。さえぎるものの無い焼け跡では、その声は長い間続いた。

今、池袋はすっかり変わって大きく繁華な街となった。池袋サンシャインの展望階から眺めて道を辿ると、代々木ゼミの看板の見える辺りが我が家のあったところらしい。


H21/07

 

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