池袋の家、女学校


女学校になると、往きは裏道を通って二十分あまりで行くが、帰りは目白駅まで友人たちと話しながら歩き、目白駅で別れ、毎日道を変え、遠回りをして一時間位かけて池袋の家に帰る。

女学校は毎日楽しくて、少々の風邪では休んでいられなかった。英語は毎日のようにあり、必ず当てられるので怠けられないが、他の学科は定期試験の時以外ろくろく勉強をしなかった。おかしなものしか出来ないのが判っているのに、そのころ流行していたリレー小説を友人達と試してみたり、体で糸束を引っ張って織る帯しめ作りや、呂挿しの刺し方を教わったりした。

四年生のころ、友人の家遊びに行くと、思いがけず十二、三センチの小さい日本人形の材料が用意されており、お母様が手伝いながら作り方を教えて下さる。嬉しくてこの人形は私の宝物となった。この経験が生きて皇軍慰問用の手製人形を皆で作ったとき、私の子守姿の人形が一番よく出来て、学校の裁縫室の戸棚に残され、ずっと飾られていた。後年私が、手作り人形を作って生活の足しにした時代があるが、このとき得た自信が基にあったと思う。



低学年の時は「昭和十一年入学」支那事変は始まっていたが未だ世の中は落ち着いていた。皇軍慰問の慰問袋を何度か作った。下駄をいれるのが流行っていた。戦地からも一度お礼の便りが届いた。

三年違いの高学年の姉が宝塚や松竹の少女歌劇のフアンクラブに入っていたので、母や姉と一緒に、少女歌劇によく行く。学校では少女歌劇が話題になっていた。小夜福子や葦原邦子、水の江滝子、オリエ津坂のころである。「すみれの花咲く頃」や「緑のアーチをくぐるよアベックターキー・・・」などの、歌を一緒に覚える。

または正月にはおしゃれをして友人数人と銀座を歩きディアナ・ダービンの映画をみて一緒に英語の歌を歌い、あんみつの若松に寄った。其のころ品薄になってきた頭につける幅広のきれいなリボンを集めた。

池袋駅の東口には映画館や劇場が三つほどあった。エノケン、ロッパの時代である。夜、夕食を終えたころになると、映画館は割引料金となるので父一人が留守番して、女中さんも一緒に女五人、よく映画館に行った。落語は父に誘われて気乗りしない風をしながら付いてゆくが案外面白い。

映画館のある細い線路沿いの道にはきまった日に夜店が出てアセチレンガスの臭いがしていた。屋台で売られている回り灯籠は幻想的で何時も足を留める。夜店の奥の方には植木屋も出ていて、父が値切りながら植木を買っていた。

池袋の西口には豊島師範(現在芸術劇場)があり、近くの三一堂文房店には良く通った。
  
H21/05

 

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