戦後・東中野

終戦の翌年、21年3月、結婚した。
夫は戦争中、陸軍技術中尉として陸軍燃料廠に勤めていた。20年春、戦争中の燃料不足を補う為、その頃日本で採っていた松根油を求めて朝鮮に行く予定が入っていたが、とうとう朝鮮に行く船が日本から出ないまま終戦を迎えた。

新居は、父の友人が東中野に古い二階建ての独身寮を持っていたので、其処を借りた。私達の前に既に四所帯住んでいた。台所、洗濯場、トイレは共同である。



寮の一階中央に管理人として、下町の空襲で火に追われ、やっと生き残ったという30を過ぎた話し好きな姉と弟がいた。後始末の悲惨な話を聞く。

南側中央の四部屋は、同じく焼け出された国立大の医学部教授夫婦が小学生の子供3人と女中さんを連れて住んでいた。子供達は縁取りのついた有名小学校の制服を着ており、母親と女中さんに丁寧に世話をされていた。

北側の一部屋には、教授の奥さんと同級生だった母子がいた。この方のご主人は満州鉄道のエリートで豊かに暮らしておられたが、終戦時、ご主人が亡くなられ、大陸から苦労して日本に帰られたが、親類は誰も頼りにならず、結局、この友人の世話で此処に落ち着かれたという。
母親は昔少しやった洋裁を頼りに子供服を作り、彼女自身が外に売り歩いていた。小3の男の子と小1の女の子は賢く、よく母親を助けていたが、幾ら働いても女手一つで子供二人を育てるのはとても困難らしかった。

玄関脇の20畳くらいの洋間には洋家具があり、其処は60歳半ばの父親と30歳くらいの娘が借りていた。昼間も米兵がよく出入りしていたが、朝になると玄関で父と娘が並び上機嫌で米兵を見送っていた。相当の暮らしをしていた方と聞くが、空襲で生活の基盤を失っては、仕方がなかったらしい。
 
私の処は双方の実家が空襲で焼けており、殆ど荷物が無かった。夫は横浜の化学会社に勤めていたが、給料が少ないうえ遅配もあり、やりくりが大変だった。私は新宿の闇市で、会社から給料の不足分として支給されるサッカリンを、主人の靴や食器類と交換した。

 母乳の足りない乳児に配給されるミルク缶を闇市に持ってゆくと、店の人に渡さぬ前に、横から手が伸びて買われていった。

鮮度の悪い魚や、見たことも無い雑穀が配給されたが、口に入るものがあるだけで有りがたく、戦争に負けたことを考えれば、これには不満が無かったった。何度も一日がかりで幕張や綾瀬の農家を訪ね、さつま芋(今よりずっと味が悪い)を背負って帰った。

 2年半程して、家主の都合で、その寮は売られることになった。私達は、私の実家が鶴見から杉並の家に引っ越したので、其処に同居する。

5年位経って、街で偶然、洋裁をしていた母親と会った。野村證券の外交員となり、すっかり垢抜けて綺麗になっていた。男の子は有名私立中学に入り、管理人の姉は結婚していた。医者は開業した。

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