日々の暮らし

「あら、Mさん、お元気でよかった」の声に目が覚める。何が何だかわからない。見ると私の寝ているベットの横に前隣の家、Hさんのご夫婦の顔が並んで上から私を見ている。

病気でも、頼んだわけでもないのに、何が起こったのか。理解に苦しんでいると「何時までも雨戸が開かないので、入ってきてみました。何でも無くて良かったです」と言われる。

時計を見ると十一時十五分である。確かにこの時間を過ぎて雨戸が開かないのは異常で心配されたのは無理も無い。外泊の時には必ずお隣さんに知らせる事にしていて、いつもそれを守ってきている。

Hさんは私の家の雨戸が開かないのに気がつき、電話を掛けたが反応が無い。勝手口の鍵のありかは教えてあるが、前夜は鎖までかけてしまい、中にはいれない。雨戸も叩かれたそうだ。会社にいる長男の携帯(番号は教えてある)に電話すると「鎖を壊しても何をしても結構です。よろしくお願いします」といったそうで、鎖は動かしているうち何とか外れ、中に入れた。

どうしてこんな事になってしまったのか、と考える。夜中に服用した、精神安定剤デパスのせいだ。いつもぐずぐずと夜を過ごしているので大低の日の就寝は十二時となる。すぐ眠れなければ処方されているデパスを飲む。そして翌日の九時にヘルパーさんが来て下さる予定のある日は、朝八時に鳴るよう目覚ましを仕掛けるが、大抵は目覚ましより早く目が覚める。



この日の前夜、如何しても眠れないまま、夜中の三時を過ぎてしまった、これでは明日が辛い。幸い明日はヘルパーさんの来ない日だから、ゆっくり寝ていよう、と目覚ましをかけず、デパスを何時もより多く飲んで寝た。

「無事でよかったです。長男さんにすぐ電話をして安心させてください」と言い残しHさん夫婦は帰って行った。数日後、息子が我が家に現れ、お隣に挨拶に行った。何時の間にか私と息子の立場が逆転している。

四十四年前、未だこの辺りは辺鄙なところで家も少なく、広い麦畑の一画に、私の家、前隣の新婚のHさん夫婦、この奥さんの親夫婦、と三軒の家が殆ど同時に建った。私達夫婦は、その親子の中間の年齢である。

親夫婦が老年になって母親の認知症が進み、外で出会うと、分けのわからない事を言うようになった。その母親に応対している私を見て、Hさんは「ご迷惑をかけます。放っておいてください」と言っていたものだが、年月が経って、今は私がお隣に世話をかけるようになった。

私の家の周りに大分家が増えたが、それでもまだ畠があって、田舎の雰囲気が残っている。このごろ、顔見知りの人と会うと「お元気そうで良かった」とか「前のようにもっと痩せたほうがいいですよ。気を付けてください」などと声を掛けられる。しかし「長生きして下さい」とまで言われると、改めてそんな年になっているのかと少しがっかりもする。

近所の子供が成人するとすっかり変わって、こちらはどこの家の子か判別出来ないが、先方はどこの家のおばあさんかと知っていて挨拶してくる。
七十歳前後の数年間、近くの「老人憩いの家」でお習字や俳句を習っていたが、その時一緒だった人達と、久々に道や商店街で会い、お互いに今の健康を喜び合うのは嬉しい。

長男が中学生のころ、自転車でお使いに行ったが、途中で五歳の男の子とぶつかり、その子の頭に少し血が出て瘤が出来たと言って帰ってきた。早速、私がその家に謝りに行った。お母さんのIさんは「そのまま逃げる子もいるのに、泣いている子を連れて謝りにきて、しかもお使いの帰りがけにも又様子を見に寄ってくれて、感心しました」と逆に褒められて帰ってきた。

このIさんは私より二歳年下でそれからずっと親しくしていたが、十年前、地主から私の家の前にある畠を借りて野菜を作るようになった。電動草刈機を使い、棚を造り、苗にビニールの覆いをかけ、私より遥かに元気で逞しい。

新鮮な野菜を季節ごとに貰うのも嬉しいが、今、私にとって一番貴重だと思っているのは、頃あいを見て玄関から前の道に出ると、畠にIさんが働いていて、気楽に立ち話が出来ることである。世話好きでこの辺りの情報に詳しく近所の、噂話を聞かせてもらったり、私が迷ったことがあると意見を聞いたりする。年代が殆ど同じなので、判断が似ていて自信を貰う。

長い間この土地に住んで、変化してゆく辺りの情景を見つつ暮らしてきた日々と、周りの心くばりが今、私の一人暮らしの生活を支えているようだ。

課題  結実
H20/01

 

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