葉山の家
 

息子達が4歳、2歳の時、杉並の家を出て葉山に来た。知人が持っていた大きな別荘で、鐙摺から少し上がった小さな山の中腹にある和風の家である。元は、明治時代の歌人、高崎正風の住まいで明治天皇がおしのびで来られていたと聞く。

母屋は和室ばかり8室ほどあり、角にある広い客間を中心に何処にも一間廊下で繋がれている。台所は学校の料理室のように広く、何人でも一緒に調理できる。庭続きに離れがあり家主さんの息子さん夫婦が住まわれていた。庭の奥は蜜柑畑になっていて、庭から海を見ると遠くに、江ノ島が見える。

母屋には、家主さんの親類の、大連から引き揚げてきた家族と、その友人の引き揚げ家族、自衛隊の夫婦、それに私達夫婦の4所帯、計15人が一緒に住んだ。屋敷の中には小学4年生以下の子供が8人いたので、子供達は木に登ったり、頂上のお稲荷さんまで行って遊んだ。

大潮になるとこの家の人たちは声を掛け合って前の海岸に出る。水が澄み、底まで見える岩場で、手を伸ばして香りのいい若布を取ったり、綺麗な色のべらや河豚を釣って大人も一緒に楽しんだ。家の前の道路を下るとすぐ海なので、訪ねて来た者はこの波の音がうるさくないかとよく聞かれたが、住んでいれば、何も聞えない。

朝、勝手口に売りに来る天秤棒をかついだ魚屋さんの魚は新鮮で、まだ跳ねているような小あじの酢の物やフライは一番の好物だった。
夏は友人や、親類の海水浴の来客が多いが、冷蔵庫もなく、食料の買い置きが出来ず困った。



鐙摺海岸は未だヨットハーバーが無く、何でも屋のお店が一軒あり、傍の砂浜に貸しボートが数隻並べてあった。まだ泳げない子供二人に浮き輪を着け、沖までボートを漕いでキス釣りをしたり、夜に子供が寝付いてからバスで逗子の映画館に映画を見に行った。逗子の披露山には、野原の中のような細い道をぐるりと回って頂上まで上がった。

父とボートを借りたが、海が荒れてきてたので、出合った漁船から魚を買ったこと、下駄がうまく穿けなくなった、と言っていた母が従姉を伴って突然訪ねて来たことなど、思い出は多い。引き揚げ家族の人達は皆、既に親がいないので、羨ましがった。

一方、夫の化学会社の景気は相変わらず悪く、給料の遅配が続き、生活には苦労していた。此処の人達は皆似たような暮らしだったので、助け合った。

人を介して、外人からの手編みセーターの注文があったので引き受けた。その頃の主婦は大抵家族のセーター位は編める。期限一週間で模様編みの婦人セーターを仕上げるのは大変で、その期間は殆ど徹夜で編んで間に合わせたが、その辛さは今でもはっきり心に残る。

たまたま見た、雑誌「婦人の友」に「布で作る着せ替え抱き人形の作り方」が書いてあった。女学校の時、皇軍慰問に出す為に作った私の手製人形の出来が良く、裁縫室の戸棚にずっと飾られていたのを思い出した。この雑誌の通り着せ替え人形を作り、勇気を出して葉山の町にある委託販売店に持ってゆくと、すぐ売れて、幾つでも持ってくるように言われた。これは作る度に工夫するのが面白く、時間に縛られなくて良かった。もう少し人形作りの基礎を学ぼうと東京に行って、その頃名の通っている先生の講習を受けた。今のように何でも既成の品のが無い時代である。

3年ほどして、葉山のこの大きな家は、大企業の寮となった。それぞれにこの家を離れたが、私の処は運良く横浜の妙蓮寺に建てられた新しい社宅に移る事が出来た。

この家を出て50年経つが、今から10年前、葉山の家が料亭に変わっているのを知って、亡くなった夫の五年祭の法事をこの料亭でした。40年ぶりに見る家は、それらしく、方々が改造され、増築され、模様替えされているが、骨組みの太い柱の位置や、風格のある昔の屋根のつくりは其のまま残され健在であった。庭は以前のように小さい松が点在して落ち着ちついた雰囲気を出し、庭を少し上がると離れもある。庭から見る海の景色は、ヨットの群れが目立つが、江ノ島が見えて、住んでいた頃を思出すのに十分だった。

帰りがけ前の海に出てみると、、焚き火の跡や、弁当の空き箱が散っている中で、若者が騒いでおり、早々に立ち去った。


H17/07

 

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