限界


美術や歴史にはそれほど興味のある方では無いのに、今まで国立博物館や都の美術館などに仏像や絵など有名な催しものがあると「行かなくては」と背中を押されるような気持ちになって、出かけている。
この数年は昔、社宅で一緒だった一歳違いのAさんとよく外出する。同じ東京生まれで若い頃の体験が似ている。

六月十二日まで、上野の東京国立博物館で開催された「写楽展」、いつの間にか六月に入ってしまい、慌てて行く日を決めた。
混雑を予想して、何時もは、上野駅に十一時に待ち合わせるが、この日は早めに十時に待ち合わせた。

その日、私は八時半ごろ家を出て小田急線と山手線を乗り継いで出かけた。まだこの時間は混んでいて座れず、小田急線では茶色の髪の外国人女性に席を譲られた。Aさんも横浜から東海道線のグリーン車の切符を買って乗ったのに、空き席が無く、立って下さる人もなく、最後まで席に座れなかったそうである。私達が行動するには少し時間が早すぎたらしい。



上野では道路が改修中なのを知らず、遠回りをして国立博物館に着いた。
写楽展の館内はすでに混雑していた。始めは、行列に加わって移動して鑑賞していたが、人々の流れが遅く、時間が懸かりそうなので、早足で歩きはじめる。その時代を背負っているこれらの絵は独特な雰囲気で何かを語ってくれる。
テレビでも紹介されたが、日本で所蔵されている写楽の版画と、今、外国から里帰りしている同じ図柄の版画が二つづつ並べて掛けてある部屋があった。版画の色具合や痛み方が少しずつ違っている。
ずっと昔、日本を離れていても、今になって、外国から、里帰りできる絵なのだから、異国で大事にされて、この年月を過していたのだろうと考えながら観る。

十一時過ぎ、美術館を出た。何時ものように、十五分ほど歩いて上野精養軒にゆく。
分りきった道なのに、二人とも、とても疲れていて、精養軒にやっとたどり着いたという感じ。不忍池の見える良い場所ではないが、最後の二席が空いていて、すぐ座れたのは運がよかった。適当なランチを注文し、終わりのコーヒーを済ませた。もう少し休憩をしていたかったが、入り口の待合所には二十人位の人達が食事の順番を待っているのが見えたので、外に出た。二人とも相変わらず足どり重く、歩きだした。

両側に桜並木の続く大通りに出ると、道の反対側の、道路の仕切りコンクリートに、七,八人の人たちが椅子代わりに腰掛けて、鳩と遊んでいるのが見えた。私達もこちら側のコンクリートの上に腰を降ろした。
この通りは車が通らないので、西郷さんの銅像の方からと、反対の噴水広場の方から、人々が歩いて来て、目の前で交差して行く。お天気が良かったせいか、ベビーカーに乗せられた小さい子供の多いのが目に付いた。
私達が腰を下ろす前から、傍の道路の上に、木琴と空き缶のような打楽器、スピーカー装置、椅子が、置かれていた。暫くすると一人の若い男がやってきた。幾つかの楽器を、手や足で操作し、「一人演奏」を始めた。南方系風の音楽のメロディが流れる。竹ざるが前に置かれたのを見ると、大道芸人だ。十分位、その演奏の聞えるまま聴いていたが、四、五人の観客が少しの間、足を止めていただけだった。
立ち上がって、駅の方へと歩き始める。まだすごく疲れているのが分る。こんなに歩くのが辛いと思いながら上野公園の中を歩いたのは初めてだ。体操教室に通っているAさんまでも私と同じ様な状態にみえる。
「餡みつやさんに行って休憩したい」と、二人で声を出したが、途中にそんな店が無く、駅が見えてきたので、そのまま、Aさんと駅で分かれて電車に乗った。

乗換駅の新宿に着いたら、少し元気が出てきた。京王デパートの中の甘味どころに寄り、一人で休憩する。朝が早かったのでまだ二時を過ぎたばかり。ガラガラの急行に乗って、楽に帰宅した。

夜になって、Aさんと長電話をする。体力がお互いこんなに落ちているとは思わなかったという話。世間の常識から見れば、八十代後半なのだから、こんな遠出をすること自体が無理なのかもしれない。
「こんなに疲れるようになったのだから、上野まで遠出するのは限界で、今回が最後になるわね」と私が言うと「タクシーを使えば、まだ行けるわ」とAさんが言う。上野公園の外回り道路には、タクシーが何台も走っていた。
貸しきりタクシーで、小刻みに乗ったり降りたりしながら、動物園はパンダを見て、不忍池の水鳥達や、桜並木、ボート遊びの風景を車窓から眺め、食事の東天紅や鰻や、岩崎邸、横山大観邸、芸大、美術館等に出たり入ったりしている自分達の姿を、暫く想像していた。



 H23/07

 


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