学徒動員の前 昭和19年初め、中等学校以上の学生は、学校を離れ、軍需工場などで働いた。 専門学校(女子大)の4年生の私も動員された。 このころ、時々書いていた日記は、残すつもりが全く無く、捨てる荷物の中に入れていたのだが、思いがけずホームページを書き始めたので、出してみた。 すっかり忘れていたことが記されていたので、要点だけ載せることにする。 昭和19年1月6日 ラバウルの争奪戦が続く。マーシャル群島に敵上陸。 千島列島に敵機来襲幾度か。 子供が毎夕、カチカチと夜回りを始めた。国民学校の生徒6,7人が集団で隣組を回る。 「タバコの吸殻、火の用心」「英米撃滅、火の用心」と1人の子が大声でどなり、数人が続いて唱和する。 「昭和風雲録、満田巌著。(昭15年)」を読んだ。政治家と財閥たちの腐敗による日本の危機が書かれている。 「5.15」、「2.26」事件など、若い人達によってなされた昭和維新の運動は尊い。 今の政策は、幾多の人達の犠牲に対して満足出来るものかどうか。 だが大東亜戦争の真っ最中であり、私達は絶対政府を信頼していかなければならない。 足りぬ所は私達の力で補ってゆく。 3月7日 首周りの湿疹が治らないので大久保の陸軍病院(軍医学校)に行った。 皮膚科の診察室では戦争で負傷し、体も、顔も、常人とは全く変わってしまった軍人さんに幾人にも会った。 私は気の毒で声も出せないのに、明るく冗談を言いながら話しかけたり、口に出る言葉は荒々しく無造作だが、傷の手当てを一心不乱にしている看護婦さん達に頭が下がる。 3月12日 近くの小学校でこの地域の「大日本青少年団」の結団式があった。 何百の飛行機が規則正しく編隊を組んで、大空にいっぱいに飛んでいる。(一定年齢の者、全員が団員になる。団員歌の歌詞はうろ覚えだが曲は今もしっかり覚えている) 夜、「加藤隼戦闘機隊」の映画を観に行く。素晴らしい。 4月15日 4年生は近く学徒動員があると聞いて、友人8人で千葉県の市川に遊びに行った。 江戸川の川べりに並んだ桜の花を見ながら歩く。 今年は桜が遅い。空の真っ青な色が川に反射し、何とも言えず美しい色をだしている。 菜の花の黄色があたりに調和して輝いている。楽しい日を過ごす。 池袋では見ることの無い新鮮な平貝や野菜を買って帰る。(この日の小さな写真あり) 4月26日 私の学科215人はみな海軍の技術関係の所に配属されるので、目黒の海軍技術研究所の式典に出席、軍属となる。後、学校に帰ってミカンの皮での洗濯法を教わる。 4月29日 天長節なので、スーツを着て、ニッカースと体操着を持って学校へゆく。。 午前は天長節の式、午後から講堂で学徒動員の壮行会があった。 校長先生の訓示をこんなに集中して聞いたのは初めてと言っていいほど、顔を見つめ、姿勢を正して伺った。 「では、御機嫌よう。お身体お大切に」と言われた時、先生のお心に触れた気がして皆、涙した。 校長先生も真っ赤になって目を拭いておられる。 次の海軍大佐、学生を引き受ける会社代表の方々のお話、送辞、答辞。今まで全講堂の人々の気持ちがこんなにぴったり合った時があったろうか。 最後に2部合唱「さくら」を全員で歌う。 式が済み、外に出て、タイコの音と共に軍艦マーチを歌い始め、校庭を行進、来賓の方々の前で校庭いっぱいに広がって産業体操をする。 終わって4年生は「海行かば」の合唱、次に在校生の「愛国行進曲」の合唱に送られ校庭を出た。 それから着替えて友人8人で近くの写真館で写真を撮る。 明日からそれぞれの動員先に分かれるが、どんな生活になるのだろう。 |
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