靖国神社


 靖国神社という言葉を聞くと、いまだ私の頭の中に一人の男性の姿が浮かぶ。

 戦争も終わりに近い昭和十九年三月、女子大四年のとき、学徒動員で、電波関係の会社の研究室に配属された。その研究室には働き盛りの若い男の姿は見えず、四十前後の技術者三、四名と、旧制中学を出て、徴兵検査前の研修生、七、八名がいた。

 女子大生は研修生達より、一、二歳年が上である。「家政科の学生が来るそうだが何に来るのだろう。美味しい料理でも作ってくれるのかな」と、冗談を言っていたという。

私達は学校の規則で、黒い毛糸でターバンを編み、三つ編みのお下げにしていた髪が乱れないよう、頭の上でまとめた。会社から支給されて初めて着る菜っ葉服はたっぷりして暖かい。

部屋に配属された女子大生五人はそれまで全く縁の無かった電波機器を前にして戸惑い、一週間くらい講習を受ける。

 五人は研修生のやっている仕事をペアーでやることになり、籤引きで組み合わせを決めた。私は長野県出身の倉石さんとペアーになる。彼はがっちりとした体で性格が明るい。    

倉石さんが新しい真空管や直視装置の発信機の実験をして、横に座った私が直ちにそのデーターの整理をしてまとめる。だんだんと仕事の種類や量が増えてゆく。



次第に、私は自分の友人達と離れ、残業して倉石さんと一緒に帰ることが多くなった。暗くなった井の頭公園の中を通りぬけて吉祥寺駅で別れる。研究室の上司の方は私達を気遣って、何気なく注意して見ているのがよく判った。

そのうちに朝、私が吉祥寺駅に着くと彼が駅で待っているようになる。

「毎朝、Tさん(私の旧姓)と会うのがとても楽しみなんだ」と言われて、周りの目を気にしながらも弟のようだから良いか、と考える。「お母さんは一番なつかしいよ。兄さんからも僕の所に、お母さんのよさをしみじみ思うって手紙が来るんだよ」とか「四年生の時はぐれてね」と話はきりなく続く。

 ある時、制服のかわいい女の子の写真を隠すようにして見せた。「貴方の彼女?」と聞くと「そう」と嬉しそうな顔をする。その写真の裏には、誰か書いたのか「千曲川釣り糸たれて太公望、たまにはめだかも釣れるとか」の文字があった。

「僕がTさんの事を手紙に書くと彼女がやきもちを焼いて困ってるんだ」という。地方の女学生は随分ませているな、と思いながら、彼は近く兵隊になって戦地に行くのだからこんな楽しい思い出があってよかったと、私は姉さんぶって考える。

「長野から林檎が送ってきたのであげたいから今日は下宿まで来てくれないか」と言われた。隣駅の彼の下宿まで行くことはためらわれたが、林檎はとても手に入らない時代なので、一緒に彼の下宿している家の前まで行く。彼は二階の出窓から林檎五個を一つずつ放り投げてよこしたので私は下でそれをキャッチして帰った。

 十九年九月、彼は、二十年早々の入隊が決まり、長野に帰ることになる。私も、短縮卒業で、半年いた動員先のこの会社を去る日が近くになった。

 ある日、彼はいつものように二人で並んだ作業机の前で、カバンから小さな自分の写真と長野の実家の住所を書いた紙を取り出して私に渡した。そして思い切ったように言い出す。

このときの事が当時の日記に書いてある
「Tさん、僕のこの写真ずっと持っていてくれる?」
「勿論、倉石さんからもらった写真は一生持っているわ」
「本当」と倉石さんは嬉しそうにいった。

「本当よ。持っているわ」
「持っていてくれれば嬉しいよ」と満足そうに言ってから、「Tさん、もし僕に万が一のことがあったら靖国神社に来てくれる?」と顔を覗き込んだ。

「勿論行ってあげるわよ。何度でも」
「僕の万が一の場合だよ、もしもの事があったらね」
「本当に行くわ、必ず」

 倉石さんは暫くしてから小さい声でつぶやいた。
「それを聞いて安心」

彼は一旦帰郷したあと、たまたま私の留守中、研究室に挨拶にきた。「年内に是非長野の家に遊びに来て欲しい」との倉石さんからの伝言を上司から聞いたが、その翌月からすぐ次の職場に移ったので其の暇はなかった。

私は翌春の空襲で家が全焼したので倉石さんの写真も長野の住所もなくしてしまった。繋がりが無くなったのでその後の彼の消息はしらない。それでも靖国神社、の言葉が出ると倉石さんは、如何したかしらと思い出す。

無事に戦争を乗り越えて、写真で見た可愛らしい彼女と夫婦になって、今穏やかに老後の生活をしていて欲しいと願う。

私は、戦後、靖国神社に二回行っている。
 
H18/08

 

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