夫の転勤

             
 私の家では二月半ばとなると、山口県の大内内裏雛が玄関や座敷に一年ぶりの姿を現す。

 夫が四十代の終わりのころ、夫の勤めるH化学会社はT化学会社と共同で、其の頃出回り始めたばかりのポリウレタン専門の会社を創ることになった。夫は上司と一緒に工場の敷地選びをしたり、特許を調べたりして力をいれていた。そして瀬戸内海沿いにある出光興産を中心にした徳山コンビナートの一角に新しい○○ポリウレタン工場が完成した。

夫は五十歳を過ぎて、二代目の工場長になって、赴任する。そのとき年子の長男、次男が大学の受験期に当たり、私は一緒に付いて行かなかった。夫は、会社のクラブハウスの一室に居を構え、其処で働いているおばさんたちに食事や、日常の世話と受けていたのでそれほど不自由のない暮しをしていたようだ。月に一度は会社の用事で生田の家に帰ってくる。

任期中、私は二度徳山に尋ね、其のクラブに泊まった。このクラブは、民家から離れた高台にあり、そのころ、あたりでは目立つモダンな建物だった。二階の窓から見ると、夫の勤めている工場をはじめ、辺り一帯の工場群が一望できる。

 都会育ちの夫は初めての地方暮らしで、懇切丁寧な付き合いの習慣には戸惑った時も多かったようだ。現在、家には萩焼きの茶器、花入れ、大内塗りのお盆など幾つかと、大中小の内裏雛が三組ある。どれも其の頃、何処からか頂いたものである。

ある時帰宅した夫が、先日、とても情けない思いをしたという話をした。 コンビナートの会社十数社がマラソンリレーをして競うことになった。何処の会社も最後の走者は工場長と決められていた。



夫は戦前、高等学校のインターハイで、十人の陸上競技部員しかいないのに、各々が砲丸投げ、槍投げ、リレーの選手となって何回も出場し、何十人もの部員を抱える他の高校を押しのけて優勝したことがあったそうだ。その時の天にも昇る嬉しさを私は何回も聞かされている。

最後は工場長と指名を受けても、五十半ばの夫は何とかなると考えていたようだ。其の日のリレーは夫の会社が初めは断然トップを保っていた。しかし最後の夫の番になると急に遅れ出した。こんなはずでは無いのに、どうしても足が動かない。次々と追い越され、若い者にがん張れ、がん張れと伴走されてやっと最後のゴールにたどり着いたそうだ。あとで考えると其の頃から、夫の知らない間に心臓の病がとりついていたのかもしれない。

夫が七十歳のとき心筋症(心臓の筋肉が大きくなり正常に動かなくなる)の病で後二,三日の命と家族が宣告され、病院につめていた時のこと。寝ているように見えた夫が突然「工場が火事で燃えている。早く、誰かに知らせろ。消防車を呼べ」とどなる。傍にいた私はうわ言と思い、「今消防署に知らせましたから大丈夫ですよ」と言うと、黙った。本人は徳山のクラブにいて、窓から火事を起こして燃えている自分の会社の工場が、見えていたのだろう。暫くして目を開けたので、先ほどあった夫の様子を話すと、「今、心臓の辺りが焼けるように、ものすごく熱いんだ」と言っていた。

先日、六十四歳の長男が旅行で防府天満宮に寄った。何となく掛けられている絵馬を眺めていると、其の中に「○○ポリウレタン会社の入社試験に合格しますように」と願いを書いた絵馬があった。息子は思わず其の絵馬の写真を撮ってしまい、私の家の神棚に持ってきた。夫が亡くなってから二十二年経ち、今は全く縁のない会社になっているのに、こんな形で会社の健在を知るのはやはり嬉しい。

今も飾られている大内雛人形は人生盛りの頃の姿を思い出させ、力づけてくれている。




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