空襲「根津山」


昭和20年4月、姉は嫁し、妹は、小田急線奥の学校の寮にはいっており、池袋の家には父母と私の3人だけだった。その日の夜も空襲警報が鳴り、庭の防空壕に入った。
飛行機の爆音と、高射砲の音がやっと静かになったので壕を出たが、南の空が赤い。

お隣のおばあさんが駆け込んできて「寝たきりの主人が、避難する時は、自分をその儘置いてゆけと言っているが、そんな事は出来ないのでどうしょう」と困惑している。父が近所の様子を見に行き、既に前通りの裏が燃えているので、すぐ避難だと言う。防空壕に土と水をかけ、各自リユックを背負って雨戸を閉めた。

避難所に指定された根津山は家から5分位の処にある。広い森なのだが、避難所にする為、周囲の道幅を広げ、道際の木は取り払われていたので民家からの道幅が相当広くなっていた。

根津山に着くと、既に沢山の人達が避難していた。しかも、殆どの人が荷物を沢山持ち込み、布団がうず高く積まれている。リュックだけの私は少し後悔した。しばらくして、父が自宅の様子を見て来ると言うので、私も退路を確認しながら付いて行く。私の家はまだ建っていたが、火は近くまで来ていた。私は急いで雨戸を開け、布団を1枚持ち出した。

時間が経って、とうとう根津山の道路に添った周りの家が1軒1軒と、赤く燃えては崩れていった。
私から見える範囲の家が全部燃え尽きたと思った頃、突然竜巻が起こった。火の粉混じりの熱い強風がぐるぐる回るように吹き付けてくる。私達は近くの者数人とと肩を組み、飛ばされない様に伏せた。あちこちから火のついた物が飛んできて衣服や荷物に火が着く。何回も叩き消した。関東大震災のとき、本所の被服廠跡の竜巻で沢山の人が亡くなった話を思い出した。父と家を見に戻った時出会っていたら助からなかったに違いない。

竜巻がやっと収まり辺りを見回すと、荷物が散乱している。隣組の奥さんがトラックの下敷きとなって亡くなっていた。隣のおじいさんは、戸板で運ばれたが、この避難所で息を引きとった。根津山の防空壕に入っていた、十数人は竜巻で亡くなったと聞く。



薄明るくなると、様子を見に来たのか、大通りに戦車「タンク」が現れ、大きな音を立てて走り去って行った。陽が上がり、私たちは道をたどって家のあった辺りを探す。我が家の防空壕から少し煙が上がっていたが、水の出っ放しの蛇口があったので消した。中の荷物は無事だったのでここで何日かは暮らせると思った。

翌日、遠くから女の子が、ふらふらした足取りでこちらに向かって歩いてくる。だんだんと近づいて来るので良く見ると、寮に入っているはずの妹だった。3人揃って顔を出すと、妹がワッと泣いた。何時までのも泣き止まないので、私は「皆助かっているのに何故泣くの」と言った。

10日位、防空壕で過ごしてから、鶴見の知人宅に移った。

以来、私はこの辺りに行った事が無い。今回、インターネットで根津山を調べると、この日の空襲はアメリカのB29が330機飛来していたとの事で驚いた。根津山には犠牲者が沢山埋められていて毎年4月13日2時から「ささやかな追悼会」が行われているのを知った。この機会にと、4月13日、池袋に行く。
駅前から見えた根津山は、大通りに添って建てられたビル街の為に削られ、ビルの裏側になっていた。
南公園で行われた「空襲から59年にあたる追悼会」に出席した。区長さんをはじめ、多くの年配者が集まっておられた。実行委員会の方々の司会により、黙祷、朗読、献花、斉唱(花)などあり、今なお昔の犠牲者を偲んで暖かい雰囲気のただよう会だった。


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