海軍技術研究所(上)



昭19年11月、学徒動員を終えて、目黒の海軍技術研究所に就職し、第二電子管室に配属された。此処は50歳くらいの技術者を頭に、30歳くらいの技術大尉(部員と呼ぶ)が数人、それぞれの部屋を持ち、その下に、少尉、学生や、私達女子、が6、7人付いていた。ここでは民間会社と違って上下の関係がはっきりとし、軍なので女子も男子のように呼び捨てにされた。

仕事は、動員の時と同じように新しく作られた真空管の性能検査を学生と組んでやる事と、外部からのお客様の接待、それに、部員以外の人達の昼食の世話である。

食事当番の日には桶を持って炊事場に行きを、人数分の食事を貰ってきて分ける。雑穀の混じらない白いご飯は珍しかった。副菜は大根の沢山はいった、白いシチュウーがよく出た。仲の良い友人達とは研究室が違っても同じ建物なので励ましあった。

私の研究室には大學帽をかぶった学生が2人、仕事をしていた。1,2ヵ月のつき合いだったが、印象に残る。東北大の予備学生の岡さんは礼儀正しい方だったが、1ヵ月あまりで出征された。もう1人広島文理大の石原さんは、とても人柄がよく、誰にも好かれていた。私が大事な真空管を操作ミスで壊したのを、自分が落としたと言って上司に報告された。12月末応召され故郷に帰られたが、二等兵になるのだという。

昭和20年になると空襲は激しく東京の、下町は火事で大被害をうけ、戦況はどんどん悪化していった。20年3月半ば、第二電子管室は京王線にある仙川に疎開した。軍人の子女に関係のあった山水高女が空き校舎になっているので其処に移る。仙川実験所と言う。



仙川にきてから同室の女子と書いた仙川日誌がある。麻の葉柄の千代紙を被せてあり、記録と言うより殆どは周りの人達についての話題である。

目黒の技研から来たもの、他所から移ってきたもの、4月、大陸から海を渡って内地に来た旅順工科大の学生5人と先生1人、少し遅れて一高の高等学校生、10人が加わり、総勢50人くらいになった。

初め、女子8人は、校舎の暗幕造りに追われた。細く手縫いした紐を通す輪は、針金を丸くしてハンダ付けをして作った。ガラスの無い窓はボール紙を張り、隙間は日本紙に墨を塗り、小麦粉の糊を作ってきて補修した。次に続々道場(講堂)に運ばれて来る雑多な形の荷物を整理し所在の一覧表を作る。男子は大きな防空壕を校庭に作った。引越しが落ち着くと、女子の仕事はガリ版書きと印刷、それに鉱石の特性検査が仕事になった

その他、女子の大事な仕事に、公用使、があった。1週間に1度くらい回ってくる。これは腕に公用使と赤く書いた腕章をつけ、電車で目黒の海軍技研をはじめ、関係会社に書類を持って行き、先方から預かった物を仙川に持ち帰る。この腕章をつけていると、空襲等で電車が止まっても、電車が走り出した時は最優先に乗れる。帰宅時間外までかかり、1人暗い部屋に帰る時もあるので、同室の女子が公用使の時は、帰ってくるまで職場で待った。親達は8時を過ぎると心配して、駅まで出向えに来ていた。

昼食は、初めの頃は隣駅の食堂に頼み、当番制で女子が受け取りに行った。その頃の仙川は田舎で、ずっと遠くの山まで見渡せた。草のにおい、雲雀の声がしていて、暫し戦争中なのを忘れた。

1ヶ月程して、昼食は女子が、2人ずつ交代で作る事になった。此処には学校の寮の大きな炊事場がある。3,4日毎に当番が回ってきた。後片付けまでするので半日は懸る。お米を1升ずつ持ち寄り、食券制になった。お客様にも料金をいただいた。

野菜は余るほどあるが、ご飯の定量が少ないので大根を米のように小さく刻み、お米に混ぜて炊き、分量が増やして喜ばれた。始めの頃の献立を見ると、大根の煮付けにほうれん草の味噌汁、牛蒡の煮付けにほうれん草の油いため、とある。あとになって干し魚が出てくる。度々、細かいとろろ昆布が沢山配給されたので全員で分けた。

20年4月13日私の池袋の家が空襲で焼けた時、3日程休み、防空壕に入れておいた綺麗なセーターを着て報告をしに仙川に顔を見せると「生きていたの。良かった」と会う人毎に声を掛けられた。この空襲の翌日、同室の女子2人が新宿から歩いて池袋まで様子を見に来てくれたが、一帯焼け野原で私の消息がわからなかったという。

日誌をみると、電波の関係会社のお客様が仙川に遠くから訪ねて来られても、こちらの技術者が出帳で留守の事が幾たびかある。目黒の技研に急用がある時は、自転車に乗って、技研と直通電話のある近くの国際電気まで、電話を借りに行った。実験所に電話が無かったとは考え難いが、空襲が続いて設備が壊され、3月ごろから電話は殆ど不通だったのかと思う。

私は池袋の空襲から半月ほどして毎日出勤するようになったが、鶴見の東寺尾の借家からは、2時間半かかり、だんだん疲れてきた。この頃の電車は定刻通りに動かず、窓ガラスが割れても補充されていない。

20年6月頃から、私を含め、女子で家の遠い者4人は、この山水高女の寮舎に入り、自炊を始めた。この仙川で生活している限り、配給の米や、炭、野菜は配給所に取りに行かねばならず、仕事中でも連絡があれば、すぐリヤカーを引いて一駅先の配給所まで取りに行った。若い男子数名も近くのお寺に寝泊りして自炊している。

5月末の横浜の大空襲をはじめ、敵の飛行機は度々現れた。校庭の防空壕から早めに出た軍曹は、敵兵の顔がはっきり見えるほど急降下してきた敵機に撃たれたが、10センチの処で助かった。夜の空襲では、敵か味方か判らないが、火を吹いひらひらと落ちてゆく飛行機を何度も見た。



H16/11

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