鳥海



子供の頃の写真は、空襲やその他の事情で大分失っているが、残った写真の中に女子大付属小学校時代の筑波山や水産試験所に行った写真がある。お揃いの夏の白いセーラー服の制服を着て、児童の後ろには付き添いの母親たちが着物姿で並んでいる。

四年生くらいの頃、軍艦「鳥海」を見学に行った覚えがある。しかしその時の写真が無いので、同級生に問い合わせてみると、同じくその写真だけは見当たらないと言う。軍艦なのではじめから撮らなかったのかもしれない。同級生の父親に海軍軍人がいたので、その繋がりで、新鋭の軍艦見学が出来たのかと考えている。どの場所を案内されたのかは覚えてない。

先日、ふと、あの軍艦、鳥海は戦争中どうしていたのかと考えた。太平洋戦争の開戦は、あの見学から十年近く経っている。戦争中、軍艦の動きや、戦況など、庶民の見るニュースの報道の中で、鳥海の名も出ていたのかもしれないが、そのころ印象になく、今になって、戦中、あの鳥海は何処にいたのか、知りたいと思った。一緒に軍艦見学した友人に電話したら「鳥海は沈没した」という。早速、インターネットで調べる。



鳥海は日本軍の重巡洋艦。最初から指揮艦として作られた高尾、鳥海、愛宕、麻耶、四姉妹の中の一つである。三菱造船長埼造船所で、昭和三年三月起工、高尾級条約型重巡洋艦の三番艦で、「昭和六年」四月五日に進水とある。昭和六年は私が小学校に入った年である。

昭和十六年、太平洋戦争開戦後、マレー半島侵攻支援とイギリス軍部隊の追跡。昭和十七年オランダ領東インド,ボルネオ島の攻略作戦に参加。スマトラ島諸島上陸を支援。昭和十七年には米船,英船を沈めた。七月、第八艦隊旗艦としてラバウルに進出。第一次ソロモン開戦に参加して被弾。第三次ソロモン海戦ではガダルカナル島の飛行場を夜間砲撃した第七戦隊と退避中、至近弾を受ける。日本軍のガダルカナルの撤退後、第八艦隊の旗艦任務を解かれる。同年十一月ラバウル空襲に遭遇する。

昭和十九年六月、マリアナ沖海戦に参加。十月二十五日にはレイテ沖海戦に参加。サマール沖海戦でアメリカ艦隊と交戦。砲撃と艦載機による攻撃で、遂に航行不能となる。それから後のことは鳥海、藤波の慰霊碑に書かれている。

軍艦鳥海・藤波慰霊碑

重巡洋艦鳥海・駆逐艦藤波は、レイテ沖海戦において共に第一遊撃部隊(栗田中将直卒)として参戦した。鳥海は昭和19年10月25日、敵艦隊と交戦中、敵艦の砲弾が命中し、航行不能になった。警戒に当たっていた藤波が鳥海の乗員を収容後魚雷を発射し鳥海は沈没した。藤波は鳥海乗員を収容し、主体と別れ別行動中、10月27日敵航空機の大編隊と遭遇、善戦健闘したが、被弾により火災を誘発しついに戦没、僚船が捜索したが、1名の乗員も発見されなかった。
戦没者  鳥海830名、藤波130名。碑は遺族により平成10年12月建立された。以後、護衛艦「ちょうかい」が毎年慰霊祭をおこなっている。

私たちが見学時に甲板拭きをしていた水兵さん達も不幸な運命に巻き込まれたのか。私たちは、こうやって九十歳近くまで命を永らえて、穏やかに暮らしている。あの時代の人たちに六十八年間の平和を頂いたのを、忘れないで過そう。



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