私の父は、新潟県高田の出身である。明治時代,祖父が寺小屋で教えていたと聞くので、教育熱心の家だったのだろう。

 父は東京の大学で農芸化学を学んだ。物心のついた頃、私の家の中にはいつも中年紳士の背広姿の写真が額に入って飾ってあった。誰かと思っていたが、やがて、これは父の師、鈴木梅太郎「ビタミンB研究の先駆者」だと知った。

父の思い出として、私達が小さい頃、夕食の準備ができた頃になると、妹が毎日のように、近くの道の曲がり角まで父を迎えに行って、妹と一緒に帰って来た。その頃残業なんてあまりなかったのだろうか。

私が学生の頃、黴菌の科目の試験前、友人に判らない処を電話で聞いていたら、そばで聞いていた父が、横からすらすらと答えを言うので驚いた。家庭にいる父しか知らず、仕事のことは関心がなかった。

お正月には部下の方が幾人も挨拶に来られるので、ご馳走作りが大変だった。毎年、暮れには余るほどたくさんの胡麻味噌を作った。和え物にしたり、焼いたお餅につける。これを作るのはいつも父の係りだった。長火鉢の横にすり鉢をおき、胡麻を炒り、とろりと艶の出るまですりこぎで摺ってから砂糖と味噌を入れる。子供の私達がすり鉢を抑え、時々母が味見に来た。炒りたての胡麻の香りが強かった。

終戦時は、食品会社の役員と研究所長をしていたが、戦後は顧問となった。会社にたまに行くだけになり、家にいる生活が殆どになる。



その頃、終の棲家として、移った三鷹市の家に、孫たちの為にブランコや砂場を作り、花壇を作った。遊びに行くと大抵庭仕事をしていた。
小学生の息子が腕の骨折で入院した時は毎日のように見舞いに来た。病気で身動きの出来ない母の世話もした。 
         
昭和三十七年、父が六十九歳で亡くなった時、家を継いでいる妹は会社に知らせるかどうか迷った。それでもと、知らせると、すぐ、その日の午後、社長が社員を伴って家に来られる。
病気なのを知らず、見舞いが出来なかったと、残念がられた。自分が入社した頃父が課長で、一緒に旅行した時などの思い出を語られた。

そして翌日の新聞の全国紙に広告を出すと言われる。少しも有名ではない父がどんな風に出るのかと思って翌日の新聞を見ると「会社の元顧問Tが亡くなった」と知らせ、母の名のあと、友人総代として社長の名が記してあるのに驚いた。

当日は八月の初めで、陽の照り付ける暑い日だったが、新聞をみて、北海道などの地方から駆けつけてきた方もあり、近所の方も多く、思いがけず賑やかなお別れとなった。社長は早くから見えて、庭の入り口のしおり戸のそばで、社員の持つ日傘の下に立って、弔問客の一人一人に頭を下げられた。最後まで残って、見送りもされた。社長の先代の奥様からもお心のこもったものが供えられた。

全く想像もしていない展開になったこの日の様子を、父自身が見られないことを、私達家族はどんなに残念に思ったかしれない。

 隠居同様に暮らしている父に、どうしてこんなに社長が心を配ってくださるのか不思議で、会社の年配の方に聞いた。

「Tさんは、前年に亡くなられた先代社長から信用があり、会社を辞めてからも、ご自宅に伺って、先代のお話相手や、やたらな人には出来ない用事をされていたから」と説明があった。母は全然知らなかったそうだ。

今の私も失ってしまったが、以前は人間関係がふんわりと繋がっていたようだ。

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