姉のお見合いの日


戦前、姉が女子大を卒業して結婚適齢期となった。三姉妹の長女なので、よその県の人でなく、父の出身地である新潟県の、しかも、父と同じ中学から大学に行った者が良い、と父の出た中学校の幹部の方にご縁を依頼したところ、候補となる人が紹介された。東大を出て、一流会社に勤める。そして見合いの日には、義兄になる人と、その母親、紹介者、三人が私達の住んでいる家に来られることになった。

明治時代、新潟県の高田で寺子屋をしていた父方の祖父が、父をはじめ四人兄妹の教育のため、家の周りにあった葉タバコ畑の土地を全部売ったと言う話は、子どもの頃、田舎に住む義祖母から何回も聞かされている。あの辺り、と、義祖母は懐かしそうに指をさして何回も教えた。

大正の初めに、今の東大を出た父は、大学出の人がまだ、とても少なくて、会社の中では幹部候補生で大事にされていたらしい。私が女学生の頃住んでいた池袋にあった家は、二百坪近い土地に、歌舞伎門のついた、立派な家だった。しおり戸をあけると、築山風の庭があり、灯篭がおかれ、手前に金魚や鯉のいる細長い池があった。しかしこの家は戦争中、空襲で焼けた。



父は私たちの通う私立小学校に、徒歩で通える距離のこの池袋の家を買い、当時流行った応接間を増築しピアノや蓄音機を置いた。

姉は近くにあった東洋音楽学校の先生にピアノを習った。上達が早く、やがて符を見てすぐ曲が弾けるようになる。私は、通っている小学校が、希望者にピアノを教え始めたので、学校で習ったが、姉のようには上達せず、才能がないと自分で決めて小学校だけでやめてしまった。しかし、姉は私と二人で連弾がしたいと、簡単な曲を持ってきて半ば強要するので、その曲を練習し時たま姉と一緒に弾いていた。

見合いの日、応接間にはお婿さん候補をはじめ、付き添いの人たちが見えていたが、私は、私には全く関係の無いことと決め、普段着のまま、奥の座敷で寝転んで本を読んでいた。そこへ姉が駆け込んできた。「ピアノの連弾をするから、早く来て」と言う。「上手なんだから一人で弾けばいいのに」と返すが、姉はどうしてもきかない。姉は嫌だという私を抱え込んで、ひきずるようにして応接間に連れてゆこうとする。私は、自分に関係の無い、かしこまった見合いの席に行くのは嫌で抵抗する。とうとう、引きずられた姿のまま、応接間の隣の三畳間まで来てしまった。応接間で見合いの客と応対していた母が隣の騒々しい様子にドアーをあけ、姉妹の姿にあきれた。

結局、私は何時ものようにピアノの右側に座り「ミリタリーマーチ」を姉と一緒に弾いた。姉の弾く低音の音色は、強く、華やかになっているので、姉はとても気持が良かったはずだ。後で聞くと、客は、姉がピアノを弾けるのは勿論良いが、姉妹で連弾しているのが更によかったそうで、良い印象が倍増したらしい。
縁談は成立した。


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