生まれる 

 戦争中の物資不足や、空襲後におきた火混じりの竜巻で、隣の人と手を握り合い、跳ばされぬように伏せたことなど、豊かで平和な暮らしを六十年あまり続けていると、いつか日常生活の中に埋もれて、いまさら思い出す事は殆ど無い。しかし少女の頃受けたショックや、真剣に考えたことは何時までも意識の中に深く根付いて時々思い出されてくる。

平成十六年の八月H.Pに「従兄弟」として、書いているが、大学を 卒業してじきに従兄弟のKちゃんが出征。何ヶ月かしてガダルカナルで戦死の報が届いた。叔母が兄である父のところに来て、繰り返し嘆く。私はそれを見ていて、叔母より、Kちゃんが可哀そうで、黙って叔母に語りかけていた。

 「貴女が産んだから悪い。あんなに大事に育てられても、Kちゃんは、戦争で苦しい思いをする為に生まれた一生だったではないか。親は本能のまま生むだけで、その子の運命を支配できない。子を育ては生きがいのある楽しい事だけれど、空気のように無のままにしておくのが、一番の子に対しての愛情なのではないか。

特攻隊の人の遺書などを見ると「先立つ不幸をお許しください」とあるが、何だか逆のような気がした。

自分でも変な考えかしらと思いながら、夫にこんな事を話すと一笑に付され、それはどうでもいいこととして月日を過ごしてきた。

 テレビに映される親子再会の場面で、子供を捨てた母親に「生んでくれて有り難う」と言う場面を度々みる。生まれた事自体がすばらしいことなのか。これは幸せに恵まれた人の言う事で、イラクで虫けらのように簡単に殺されている人たちは人間として生まれて幸せなのだろうか。

 何億年も前から強いものが弱いものを征服し、欲望をみたすための殺し合いが続く。文明は進んでもちっとも人間の本能は変わらない。そして万国共通の正義など無いのだ。

六十年あまり、平和を維持し発展してきたが、舵取りが難しい世界情勢なってきた。地球温暖化も進む。生きていると、努力だけではどうにもならない運命がつきまとう。



この春、一番年長の孫娘が結婚した。結婚式ではお定まりの言葉のように「早く赤ちゃんを見せてください」と言う祝辞があった。今までひ孫の事など考えたことがなかったが、このごろ、新しい命がうまれてくる場面を考え始めた。

長男家族は親類同士、仲が良い。嫁は子供好きで、姉夫婦の孫の写真を携帯電話に入れ、時々その成長ぶりを私に見せてくれる。ひ孫が生まれたら小さいうちは親族の宝物のようになって育つのではないか。

昔考えたことが又意識の上に戻ってきて、何となく世に出てくる不憫さを感じて心がゆれる。しかし、実際に顔をみたら、自分がどんな反応をするのだろう。本能のままに、私の後に続く命としてすごく可愛らしく、今までに無く満足した気分を味わうのかもしれない。

 
課題  ゆれる
H19/04

 

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